隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

押入に眠っていたビジネスバック復活!


 現役時よりビジネスバック)を愛用してきた。

 現在もショルダーバックを日常使いしている。

 なんで?と思われるかもしれないが、家の中で部屋を移動する時、このバックも一緒に移動する。何時もバックが手元にあるのだ。

 何が入っているのかと言えば、スマホ、手帳、筆記具、メガネ、Kindleコンデジ等々である。いずれも身近に置いておきたい物ばかりなのだが、現役時から衣類のポケットには何も入れず、何でも鞄に詰め込み、更に、仕事に関わる書類なども大量に持ち歩いていた。

 そう言えば昔(若い人は知らないだろうが)、一冊の手帳を取り出して「だいたいやねぇ」の口癖から始まって「私なんかこれだけ!」という竹村健一氏のCMがあった。

 「資料を持ち過ぎの奴(イコール)仕事ができない奴が竹村氏の持論であったようで、CMが流行った頃はかなり共感して、口癖まで真似して、手帳一冊(「成文堂」手帳)で仕事をしていた若い頃があったが、晩年というか中間管理職になると持ち物も増え、ビジネスバックの中には常に書類が入っているようになった。

 ところで、
 鞄と言うとこだわる人がいるようで、小生もその一人かもしれない。

 中島鞄土屋鞄吉田鞄とお気に入りの鞄屋があり、買いもしないのにショップの近くを通りかかると鞄を見て行く。

 用途に応じて色々なバックを使い分けてきたが、今それらのほとんどは押入の中にあり、いずれ処分しなければならない時が来るのかもしれない。

 ところが先日、既にご用済みとなって眠っていたはずのビジネスバックの一つ(写真)を引っ張り出すことになった。吉田鞄(「ポーター」のブランドで有名)だ。もう使うことはないと思っていたが、現在関わっている町内会の「仕事」の関係上、使わざるを得ないことになってしまったのだ。

長年愛用したビジネスバック


 仕事とは主に会計である。
 書類、ノートパソコン、時に自分のお金ではない現金を持ち歩くこともある。

 役目を終えたと思って静かに眠っていたビジネスバックは何事かと思っているかもしれないが、まぁ主が、もう一度出番を与えてやろうと言っているのだから、ここは主の役に立ってもらうしかない…。

 引っ張り出してきたはいいのだが、引退後、押入にしまい込んでいたので忘れていたが、ショルダーベルトと鞄を結合する箇所に綻びを発見した。長年使い込んできたので経年劣化したのであろうが、ここはもう暫く小生に付き合って貰わなければならないので修繕してあげることにした。

 以前一度だけ利用したことのある鞄・靴の修理屋さん(写真)が思い浮かんだ。ネットでは丁寧な仕事で評価が高く、それは前回利用したときに証明されている。

 そして本日、きれいに修繕された鞄を受け取った。

 マスターに聞けば必要な部位の縫製をすべて解き、補強しながら再度縫い直すのだそうだ。今回も、もう充分使い込んだヨレヨレの鞄の修理に対応して頂き、そして復活させてしまう職人の技に感じ入っている。

「靴専科」横浜反町支店


 明日の土曜日は町内会の打合せがあり、早速出番がやってきた。
 鞄に書類とパソコンを詰め込む。

 この仕事、無報酬のボランティア活動で定年があるような無いような…。

 周囲を見渡せば、小生などはまだ現役に近い世代として、第二の人生のなかでも若手?中堅どころ?の範疇にあるようである…。
 人生百年時代というが、果たしていつまで頑張れるか?

 でも…
 前回の投稿もそうであったように、
 町内会のことを書くと結論は何時も同じになってしまうのだが、
 現在取り組んでいるライフワーク両立する範囲で、前向きに、地元への恩返しと思って、出来ることを出来るときまで一所懸命(いっしょけんめい)やろうと思っている。

 『 随処作主 

 「随処に主と作(な)る」と読む。
 臨済宗の教えのようであるが、かつての上司、伴徳智加先生(リンクの稿で少しふれた)から贈られた言の葉を思い出している。

随処に主と作る」(伴先生の筆による

 

 


inkyoclub.hatenablog.com

5月15日に寄せて_沖縄の祖国復帰50年に思う!

飛行機の商用利用可能なフリー写真素材

 実は47都道府県の内、沖縄県のみ訪ねたことがない。

 もう一県、宮崎県にも行ったことがなかったが、何年か前、グループで大学の先輩を訪ね、ようやく当地を踏んだ。(余談だが、鬼の洗濯板で有名な青島神社に参拝し、夜間、漁船の船縁で飛んでくる飛び魚を網ですくったりしたことが思い出される。そうそう、理事長と同級生の体育学部一期生のサッカー部の先輩〔お名前を失念してしまった〕にもご自宅を訪ねお目にかかった)

 あとは沖縄県のみ。

 沖縄上空を飛んで、フィリピンに慰霊の旅に訪れたこともあるし、台湾にも、中国海南島にも公私の用件で訪問したが、行きたいと思っている沖縄の地を未だ踏めずにいることは大変心残りである。

 沖縄には国士舘大学卒業後ずっと年賀状の遣り取りをしている「」と言う同級生がいる。
 初めて出会ったのは大学1年生の時だから昭和48年
 当時、彼は「国防部」(当時の時代背景の中で各大学に存在し、異彩を放っていた。早大国防部は三島事件の森田必勝氏で有名)に所属していて、沖縄独特の精悍な顔つきの、中々気骨のある「男」で、また国士舘には珍しい理論派で小生とは気心があった。

 昭和48年は沖縄が祖国に復帰した翌年であるが、彼とはよく政治向きの話しをした記憶がある。その中で復帰前の米国統治下の沖縄は車両が右側通行であったとか、本土に来るときはパスポートが必要であった等々の話しを聞いて、外国に「占領」されることの何たるかを実感したことがあった。

沖縄復帰50年!

 本日の新聞紙面にいろいろと思うところがある。

 今日、ロシアによるウクライナ侵略やロシア政治家による「(専門家によれば)ロシアは北海道にすべての権利を有している」などという驚きの発言を耳にする情勢の中で、50年前米国統治下沖縄平和裏祖国復帰したことの意義深さを改めて痛感している。

 そして出来るだけ早期に沖縄を訪ねたい!という気持ちが強く湧いてくるのである。

ひめゆりの塔(Free写真素材使用)
ひめゆりの塔の商用利用可能なフリー写真素材

 

 

 

inkyoclub.hatenablog.com

日曜日の大仕事_と言ってもお金の計算!

 日曜日は基本的に「何もしない日」と決めている。

 町内会の美化活動(ゴミ拾い)に出かけることはあるが、これは散歩の延長のようなもので、終わると実に清々しい気分になる。今のところ、小生にとっては労力というほどのものではない。

 引退後、ほぼこの生活スタイルを通してきたが、この間の日曜日、日中の何時間かを結構、根を詰める作業に費やすこととなった。
 お金の計算である。

 これも町内会の(大事な)仕事なのだが、昨年度まで会計業務の補助者であったところ、今年度より主務者の業務を引き継ぐこととなった。現役の頃は部下がやってくれていたので、会計の仕事(実務)などは初めてのことだ。しかも、今までは見習いで町内会の会計業務の全体像が全くつかめていない。

 そこへ早速、年度初めの大仕事がやってきた。
 4月中に各組(町内会の最小単位)ごとに集められた年間会費が、5月当初の定例会に持ち込まれた。総数38組の町内会費だ。

 この集金作業は会計担当者2名で行うのだが、これが一苦労である。各組から持ち込まれる会費はお札ばかりではなく、硬貨だけで持ち込まれる場合もある。まずはこの金額を確認し、入金伝票を作成して組ごとに封入する。総額でおよそ百数十万円。ここまでが集金当日の作業である。

 さあ、翌日の日曜日。
 ここからは1人の作業だ。

 各組ごとの入金伝票の金額をまずExcelシートに入力する。そうすると計算式に従って合計値が算出される。

 次の作業はこの合計値が集められた現金と一致するかの確認である。
 これが大変。

 会費は組ごとに封入されているので、これを取り出してお札硬貨に分け、計算していく。特に硬貨の集計が大変である。

 詳しくは書かないが、この作業に約3時間強を要した。
 途中間違いがあってはいけないと、休憩を何度か入れた。
 最終的に金額が合わないとお札、硬貨の数を再確認しなければならない。それだけはないように!

 はたして結果は?
 Excelに表示された七桁合計値と勘定した金額がピタリと一致した。
 思わず緊張が解け破顔一笑! 自画自賛
 最近ではよく使われる物言いだが、自分を褒めてやりたいとも思った。

 反面、デジタルの時代に超アナログな仕事。これでいいのか? 何か改善の余地はないか? 他の自治会・町内会はどのように処理しているのか? などと強く感じた。

 硬貨の数は最終的に500枚を少し超えたが、町内会のメインBankであるゆうちょ銀行では2022年1月に手数料改定が行われ、預け入れ(貯金)をする場合でも硬貨の枚数に応じた手数料がかかることになっている。500枚を超えると1100円、500枚以内であれば825円の手数料だ。ここは手数料を抑えるため、一部硬貨を自分の財布のお札と両替し825円の手数料となるようにした。

 作業終了。
 現金を金庫に納め、翌日の月曜日、ゆうちょ銀行に持ち込んだ。

 現役引退する時、「もう充分働いた」としみじみ思ったことがある。
 事務を含め「仕事」とは一線を引き、町内会に関わった時は単純に汗を流す仕事をやりたいと思っていたがなかなか思うようには行かない。
 まあしかし、仕事は嫌いではないので現在取り組んでいるライフワーク両立する範囲で前向きにやっていこうと思っているところである。


inkyoclub.hatenablog.com

kandaiji-kitachou.jimdofree.com

5月5日に寄せて_「六日の菖蒲十日の菊」

 今日(5月6日)の「ひなちゃんの日常」(作者: 南ひろこ氏)を読んで思わず苦笑してしまった。

 産経新聞の連載漫画であるが、本日のストーリーは「ひなちゃん」と「おじいちゃん」の会話で六コマの場面が展開されていく。

 ひなちゃんの「今日も(スーパーで)ショウブうってました」に対し、おじいちゃんが「6日のアヤメ10日のキクといってタイミングが遅くてもう役に立たないことをいうんだ」「ショウブはお役ごめん」と返す。

 なんだ我が輩のことではないか。

 五月五日は菖蒲湯に入ろうと、せっかくショウブを買ってきて準備していたのに、どうしたことか湯に入れ忘れてしまったのだ。

 何でこんなことになったのか、あれこれ考えてもしょうがないことを考えている。

 昨日は休日であったが、午後から町内会の会議があり、帰って来てからも夕刻まで関連の作業をしていた。その流れで風呂に入った。そうか、ここでしくじったのだ。

 風呂から上がって缶チューハイをぐいっと飲み、暫くしてから気がついた…。あっ!と思ったが後の祭りである。

 しょうがない。

 あれこれ考えてもモヤモヤが残るだけだ。
 せっかく買ってきたショウブだから捨ててしまうのも忍びない。今日ショウブの湯に浸かろう。そして湯の中で「六日の菖蒲十日の菊」の故事を噛みしめよう。

近所の幼稚園の鯉のぼり

我が家の五月飾り
 
銃剣道防具。いつか銃剣道との関わりについても書く予定。

 

 

斉藤立(たつる)君 全日本柔道選手権 優勝! 我が家で祝杯!


 一昨日(4月29日)、途中までBS放送全日本柔道選手権を見ていて、番組が地上波に切り替わる頃、ちょっと所用でテレビ観戦を中断したので結果を知らなかった。

 翌朝、新聞紙面を見ると「斉藤 初の親子日本一」「剛柔兼備の20歳 世界切符」の文字が躍っている。

 そうか優勝したのか。

 直ぐにYouTubeで試合を確認した。

 いつも郵送して頂いている大学新聞(今年の1月25日号)に、昨年、国際大会(グランドスラム・バクー大会)で優勝した記事が掲載されていたこともあり、大いに期待していたが、まさに期待どおり。

 それに風貌、体格、親父殿そっくりではないか。
 否、親父よりすこし大きいのか!? 斉藤仁君をよく知るものとして、親父の後を追い、国士舘で修行を積んでいる子息が無差別級に優勝、二代にわたり日本一の座に着いたことは感慨ひとしおである。

 これはもう(かってに)祝杯をあげるしかない。

 思えば、斉藤仁君の大結婚式にも出席させて頂いた。数々の祝勝会にも出席した。もうかなりセピア色になってきたが、どれもみな懐かしい思い出である。

 実は、何かの折にいただいた斉藤仁ゆかりの酒器(写真)がある。酒器の底面に「05.12.3」とあるが、何の祝勝会でいただいた引き出物であったか? 残念ながら失念してしまった。

 でも今日はこの(さかづき)で一献飲ることにしよう。

 

 君の所属する倶楽部、学部、強いだけではない「人づくり」の国士舘に乾杯!

 君を育て磨いている監督始め周囲の方々に乾杯!

 そして、ニューヒーローの登場と活躍に乾杯!

 

 

 

昭和の日に寄せて_横浜散歩! 昭和天皇ゆかりの地を訪ねて!

昭和天皇聖蹟
 横浜駅から徒歩10分の位置、神奈川宿を望む高島台の高台にある。今は住宅地の片隅にひっそりとたたずんでいる。

 本日は昭和の日である。

 小生、いくつか散歩コースを設定しているが、今日は横浜駅へ向かう散歩コースを延長して、最近ネットで知った昭和天皇ゆかりの地を巡ってみることにした。

 小生宅から横浜駅まで約3.5㎞。

 天気予報によれば今日は午後から雨とのことである。10時過ぎに家を出て、時折パラパラと雨が落ちてきたりしたが構わず歩を進めることにした。

 途中、いつものコースを少し迂回し、神奈川宿の高台に位置する高島台にある「昭和天皇 聖蹟」(写真上)を訪ねた。

 小生の関心事(歴史)の範囲で、少しだけこの周辺を紹介してみる。

 まず、この高台を下った直ぐ先の旧東海道沿いに、坂本龍馬の妻、おりょうさんが仲居として働いていた老舗料亭「田中家」(写真下)がある。田中家は歌川広重にも描かれた神奈川宿旅籠さくらや」の跡に、文久3(1863)年に創業されたものである。敷居が高くてまだ入ったことはない。

 もう一つ、写真(上・下)の緑色の屋根は本覺寺会館である。本覺寺の本堂は道を挟んだ左手方向にあるのだが、ここは幕末期、アメリカ領事館となっていた。文久2(1862)年の生麦事件の際、薩摩藩士に切られた英国商人が流血しつつも馬を飛ばし助けを求めた場所である。

 さて、「昭和天皇 聖蹟」はどのような史跡か。
 石碑に刻まれた碑文を紹介しよう。

聖蹟
 大正十二年九月一日 我カ市ノ大震災ニ罹ルヤ 攝政殿下ニハ 十月十日ヲ以テ我カ市ニ行啓アリ 畏クモ玉趾ヲ此ニ止メサセラレ 焦土ト化セル全市ノ惨状ヲハセ給ヘリ 因テ碑ヲ此ニ建テ之ヲ後世ニ傳フ

 昭和天皇がまだ大正天皇摂政の頃、関東大震災の直後にここ横浜の地に行啓されたのだ。

 話が飛ぶが、関東大震災というと親父を思い出す。
 小生が小さかった頃、親父は震災の3日前に(駿府で)生まれたと、よく聞かされていたからだ。その後親父は中国戦線を戦い、終戦後、復員して横浜で警察官になった。横浜で母と出会い結婚して小生と弟が生まれた。実は小生等が生まれた場所は(今は無いが)ここから目と鼻の先の産院である。何の脈絡もないが何か感ずるものがある。

 そんなことを考えながら高島台の高台にて、摂政宮殿下(昭和天皇)がご覧になられたであろう焦土の横浜と、眼前の復興し発展した今日の横浜とを頭の中で対比させながらしばし感慨にふけった。

 現実に戻り、碑に合掌し横浜駅に向かった。
 久しぶりに市営バスに乗って、雨が本格的に降り出す前になんとか帰り着いた。
 この日約4.5㎞を歩いて歩数は11,040歩であった。

 

高島台の高台より青木橋旧東海道)方面を望む


坂本龍馬の妻 おりょうさんゆかりの老舗料亭「
田中家」



 

 

inkyoclub.hatenablog.com

ユニクロのセルフレジに初挑戦!

 新横浜キュービックプラザの三省堂で立ち読み(情報収集)した後、いつもは通り過ぎる階下のユニクロを覗いてみた。ユニクロで買い物するなど殆ど無いが、フロアーを歩いていると夏向きのデニムのTシャツが目にとまり、小生にとっては珍しく衝動で買ってみることにした。

 さて、レジはどこだ?
 んっ! レジがない!

 端末が置いてあるカウンターらしきものはあるが、人はいない。
 ピンときた。ルフレだ。
 ユニクロがこんなことになっているとは知らなかった。

 一瞬、止めようかと内心思ったが、デジタル派を自認する小生としてはここで後に引くわけにはいかない。商品を手に持ち、恐る恐る端末の前に進み出てディスプレイの問いに答えていく。

 後から気がついたのだが、商品は端末右側の指定された箇所に置かなければならない。小生はそれに気がつかず、ずっと手に持っていた。それでも端末は、商品は一点ですか?と聞いてくる。

 その通りだが、どこで俺を見ているのだ?

 デジタル人間の思考ではない。

 何回かディスプレイを操作し、漸く決済の一歩手前まで行き着いた。おサイフケータイで支払うことにした。金額を確認し、ケータイをかざすが反応しない。

 アレっ、おかしい?

 ケータイのICチップと読み取り機の位置がずれていると反応しないことがたまにある。色々試すがそれでも反応しない。

 ここでようやく店員さんが来てくれた。

 小生、読み取り機の画面(写真のディスプレイ左下の機器)とケータイの画面をピッタリ合わせていたが、「読み取り機の最上部にケータイのICチップを合わせてください」とのことだった。

 シャリーン!Edyの決済音)

 決済終了。

 貴重な経験をした。
 次の時はもう大丈夫。
 またユニクロで買い物してやろうと思った。