先週の火曜日、週一の学援隊の当番を終え、リフォームの進捗状況を確認しに自宅へ向かった。
まずは郵便受けをのぞく。
いつもまとめて届けて貰っている1週間分の新聞の束を引き取った。
今、戸塚では新聞のない生活を送っているが、毎朝、紙媒体の記事を読まないとどうも一日が始まった気がしない。一応、タブレットやスマホで主要各紙のニュースサイトは閲覧しているが、長年、紙媒体のメディアに慣れ親しんできたこともあり、愛読紙ぐらいは紙面を大きく広げて、見開きで全体を俯瞰したいのだ。ポストから新聞を回収すると、翌日から数日かけて1週間を溯りながら情報を確認するのだが、読み終わった新聞を積み上げていくと、1週間という「時」がどういうものかを物理的に感ずることができるのである。
家は大部工事が進んでいた。
外壁も、密かにこれにしようと決めていたチタンレッドのアンティークレンガ調の壁材(写真)が、西側と南側の外壁の大部分に施設されており、内装の壁紙も、ちょうどこの日から貼られようとしているところだった。
進捗を確認し、一応一安心。
自宅の様子を確認すると、いつもであれば「むさしの森珈琲」館に向かうところだが、何故かこの日は、急に思い立って鎌倉へ向かうことにしたのである。
横浜新道から「横横」(よこよこ)に入り、日野インターから北鎌倉を目指す。
行き先は既に決めている。
昨日までの雨も上がり、ひょっとすると混んでいるかなと思ったが案の定、駐車場から明月院に続く道は人の列。境内も人で溢れていたが、それ以上に所狭しと咲き誇る紫陽花の花・花・花。
歳をとったせいかもしれないが、小生のような者でも、花に囲まれていると、四季の彩りの中に花鳥風月を感ずることこそが、最高の贅沢ではないかと思えるようになってきた。
この日はまだ梅雨に入っていなかったが、次は、雨の日にEOSと共に訪ねてみようと思ったところである。
次に向かったのが円覚寺の黄梅院。
本日の最終目的地である。
小生、円覚寺との関わりは長い。
大学1年次、円覚寺関係者の選挙に関わったことは以前の稿ですこし触れた(Link参照)。以来、年に一度(以上)は必ず訪れる場所である。
円覚寺総門を入り、坂を登り最奥の黄梅院を訪ねた。
階段上の門を入り、正面左手垣根の扉を開け、奥の柴田家墓所を訪ねようとしたところ、途中でお二人のご婦人が立ち話をされていた。
どこの誰とも判らぬ者が、勝手に垣根を越えて侵入してきたので、当然のことだが小生を誰何するような視線を感じ、会釈をして参内した目的を伝えようとした。お一人は当院で作務をされている方のようであり、もうお一人は、まじまじと顔を見つめてしまったが、確かに見覚えのある…、柴田郁子先生ではないか !!
ご挨拶をし、立ち話の後、墓所のお参りをさせていただいた。
しかる後、再び立ち話であるが短い時間、四方山の話しをさせていただいた。
お話しを伺いながら、小生はつくづく迂闊な奴で、今日が6日、徳文先生の月命日(命日は4月6日)であることを郁子先生と話しをする中で気付かされたのである。
そして、何故今日、いつもであれば「むさしの森珈琲」館へ行くはずのところ、急に此処に来ようと思い立ったのか、理解の及ばない不思議な感覚に陥ったのである。
郁子先生からは、此処円覚寺の受付で大西先生に呼び止められ思いがけない出会いがあったこと等を伺い、小生からは、後輩の伊井氏が徳文先生と一緒にブラジルを訪問した際の「ブラジル紀行」を書く予定であること等を伝えた。
思いがけない一瞬の交錯であったが、有意義な時間を過ごさせていただいた。
このことは大西先生と伊井兄に報告し、大西先生からは「郁子さんは月命日にはずっとお参りされています。~想いが深い情のある方だと思いますね。」伊井兄からは「私も4月6日に黄梅院に行き線香をあげてきました。紀行文もそろそろ重い腰を上げなければ。」とのことであった。
ここで、
小生の悪い癖なのだが、一応、先生のご了解を得て1枚だけ写真を撮らせていただいた。公開についても、無理矢理ご了解をいただいたつもりであり、ここに掲載させていただいた。
一期一会に感謝。
ありがとうございました。
▼円覚寺黄梅院/柴田家墓所