▼田中崇志遺稿追悼集「日本の子」
前回の投稿から2週間以上が経過した。
重いブログテーマと向き合っていて筆が進まなかったことと、もう一つは現在関わっている町内会ホームページの充実化に対応していたことがこの空白の理由である。
後者についてはご関心があれば現物(URL参照)を見ていただければと思う。
何の変哲もないHPだが、町内会チーム(ICT部改め「デジタル広報部」と称する)の面々と取り組んだ、一応力作のつもりであり、今後更に、町内会の「見える化」(仕事における問題を常に見えるようにすることで、問題が発生してもすぐに解決できる環境を実現し、さらに問題が発生しにくい環境を実現するための取り組み)を図るために、グレードアップを図っていきたいと考えている。
束縛のない隠居生活、何でも適当(いい意味で)にやればよいのだが、入れ込むと没入するところは長所であり短所であると思っている。
■CONTENTS - kandaiji-kitachou ページ!
さて、前者について…。
ブログ原稿の作成に着手したのは昨年の今頃のことであり、今でもこの「はてなブログ」の下書きのサイトに書きかけの原稿が眠っている。
小生が若い頃、最も影響を受けたある先輩の生き様と「死」(自死)について書こうとしたが、テーマが重すぎてどうしても原稿がまとまらなかったのだ。
実は、今年は同先輩の三十三回忌(平成2年6月12日命日)に当たる。
そういえば32年前もそうだった。
追悼集(冒頭の写真参照)を出版するということで原稿を求められたが書けなかった。
テーマが重すぎてと書いたが、もっと正直に胸の内を明かせば心の中でその「死」をずっと封印してきたのだ。そのことに触れないように心を閉ざしてきたのである。
年月を経て昨年、三十三回忌を期して何らかの総括をしておきたいと思ったのだが、やはり、原稿着手から1年を経た今日でもほとんど何も書けないでいる。頭の中では数々の思い出がグルグルと回っているのだが…。
何故か。
恐らく心の何処かで(言葉では)書き尽くせないと思っているのだと思う。
今後も書けないであろうと予感しているので、せめて最低限の記録を残しておこうとキーボードをたたいている。
ここまで書いてきて、まだ何も書いてないではないかとも思うし、パラドックスであるがもうこれ以上書かないでおこうとも思っている。後者の気持ちが強い。すべてを忘却の彼方において、ただ「田中崇志」という漢(おとこ)が国士舘にいたということのみを小生の歴史(記憶)とこのブログに刻んでおこうと思う。
【田中崇志先輩/経歴】
・学歴: 島根県立太田高等学校卒業(S44.3)
国士舘大学法学部卒業(S48.3)
・倶楽部: 国防部 大民塾主宰
・勤務: 目白学園高等学校教諭(新宿区)
・余技: 柔道三段 居合道二段
・逝去: 平成2年6月12日 享年39歳
▼三軒茶屋すずらん通り割烹にて
平成2年の夏と思われる。堀田先輩(前列左/伝拳初代)の呼びかけで有志が集まり偲ぶ会を催した。
▼H4.9.27_田中崇志先輩の墓前にて
墓所は田中先輩の実家から程近い島根県仁摩町馬路、鳴き砂で有名な琴ヶ浜に面した処にある。眼前には日本海が広がっている。右隣は実弟の淳司大兄で小生とは国士舘同期生。体育学部レスリング部OBである。
▼馬路琴ヶ浜にて
▼出雲大社にて
▼雑誌ゼンボウに寄せられた郡順史先生の追悼文
郡先生(明大OB)は主として武士道を題材にした歴史作家であるが、田中先輩他とグループでお宅を訪ね、酒を酌み交わしたことがある。平成27年、鬼籍に入られた。