隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

親父殿の七回忌法要を終え、浅草で古き先輩と旧交を温める!

菩提寺「専心寺」本堂

 令和6年2月11日(日)
 建国記念の日
 菩提寺で親父殿の七回忌法要を行った。

 遡ってちょうど1ヶ月前、後輩から、やはりこの日11日に会合(OB会)を予定したいとの打診があった。同日に二件の予定をセットすることは避けたいところであったが、主賓が柴田正徳(まさのり)先輩(以下、正徳先輩)と聞き、時間的・場所的に移動が可能であれば参加する旨を伝えた。

 午前11時、菩提寺にて七回忌法要をしめやかに営み、墓前に花を手向け静かに手を合わせた。因みに、ここ専心寺(港区白金)は江戸初期の創建で、徳川三代将軍家光が鷹狩りの途中に立ち寄ったという由緒の残る寺院である。

 ここには、遠いご先祖様や親父の亡くなる1年前に旅立ったお袋も、弟(国士舘高大OB)の上さん(国士舘OG)も眠っている。昨年、一昨年とそれぞれの七回忌を、そして今年親父の七回忌を終えて、年を重ねながら供養と年忌法要を重ねていくことの意義をしみじみと噛みしめている。

 帰り際、前住職及び現若住職と再度挨拶を交わし、目黒通りから第三京浜経由で一路横浜へ取って返した。いつも墓参の帰りに必ず立ち寄る新横浜のうなぎ屋「大黒屋」で、いつものオーダーをこの日はテイクアウトして、自宅で身内だけの会食を行った。

 食休みの後、頃合いを見て次の会合が行われる浅草へ向かった。
 新幹線、JR、銀座線と乗り継いで浅草駅を降りると雷門は人でごった返していた。待ち合わせの時間に少し遅れたので、直接、会合の店へ向かった。

 既に小生以外のメンバーは揃っていて、座の中心の正徳先輩と一別以来の挨拶を交わした。以前会ったのはハッキリと覚えていないくらい前のことだ。おそらく十年くらい前だろうか?

正徳先輩(右)と小生

 柴田正徳(しばたまさのり)先輩。
 祖父は国士舘創立者柴田徳次郎先生。
 親父殿は伝説の不動丸氏。

 正徳先輩と小生は五十年の付き合いになるが、初めて会ったのは小生が国士舘大学へ入学した頃のことである。当時、小生は望岳寮で修行する国士舘ヒエラルキーのボトムに位置する一年坊主であったが、求めて国士舘関係の人士に会っていた。その中には今日まで交流の続く方、或いは間違いなく小生の人生を左右するような影響を受けた強烈な個性の諸先輩も複数おられるが、その内の一人が正徳先輩なのである。

 初めて正徳先輩に出会ったのは昭和48年、正に国士舘48年騒動の真っ只中。次にお会いしたのが昭和58年、国士舘58年騒動のさなかであった。

 どういうわけか母校国士舘に大きな出来事がある節目節目で、先輩にお会いしているのである。それぞれの詳細についてはここでは書かないが(とうてい書き尽くせない! 小生が鬼籍に入るまでの課題としておく!)、後者の事案が収束した後、正徳先輩からちょっと神輿でも担いで国士舘の意気を示さないか! もう少し有り体に言うと、あまりに尋常ではない数年間を過ごしたので、騒動の憂(う)さを晴らさないか(禊ぎをしないか)、との誘いだったように思う。

 この誘いを受け、神輿会「士祭会」を結成した。
 会長は小生。
 いつも貧乏くじを引いている(本音)。
 構成員は全員が国士舘関係者(職員・OB及び学生他)。

 後に、会のリーダーたちが大学の中堅どころとして業務多忙となり、士祭会の対外的活動も縮小していくが、約十数年間にわたり、学内はもとより、都内各所において活発に活動を展開していくことになるのである。


 さて、節目節目に正徳先輩と出会っていると書いたが、そうすると、今般の出会いに何か意味はあるか?

 実は、再び大きな課題を投げかけられたようである。

 それは士祭会に関わることであるが、いずれ詳しく書くことになるかもしれない。