隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

祝・高野敏春教授ご定年!_先輩と出会った昭和48年の国士舘を振り返る!


 昭和48(1973)のことを書こうとしている。
 小生にとって昭和48年がどのような年であったか…。

 第一に、国士舘創立者柴田徳次郎先生が逝去(1月26日)された年である。
 小生、昭和48年入学組であるが、入試日が1月下旬(27日か28日?)であり、受験当日、世田谷校舎の正門(青雲寮)をくぐると左手舘宅(舘長宅: 現在の建学の森と1号館の位置)の塀に、鯨幕(くじらまく)が張られていたのを覚えている。

 第二に、前述のとおり、小生が国士舘大学(法学部8期)へ入学した年、そして覚悟をもって望岳寮入寮した年である。
 入学して直ぐの6月頃だったか、本学の一部学生・生徒と朝鮮高校生朝鮮総連系)による乱闘事件が都内各所で連続して発生し、都度マスコミに報道されたことにより、国会でも取り上げられる事態となり、その後の国士舘の改革へと繋がっていくのである。

 第三に、前項後段のことが発端となり、国士舘の改革を期して全学的な組織である「近代化委員会」が発足(6月29日: 第1回総会)した年である。
 委員長は、後に小生も授業(民事訴訟法)を受けることになる法学部教授中村宗雄先生(国士舘理事)であった。因みに中村宗雄先生は創立者柴田徳次郎先生と早大専門部で学んだ同期である。

 上記の通り、昭和48年は国士舘にとって波乱に満ち、小生にとっても決して記憶から消えることのない年となった。

 そして、前述した近代化委員会の下部組織、法学部学生代表委員会が主催した集会(ミニ集会)において、当該委員会の委員長であった、今日の法学部教授高野敏春先生(法学部6期/一時期言道部に在籍)と出会うことになるのである。

 高野先生との出会いは後期に入り、近代化委員会の答申により、制服着用自由化(S48年10月1日)された以降の「館長訓話」を受講した後のことだったと思う。

 当時、政経・法・文学部の教養課程(1・2年次)は鶴川校舎(現町田キャンパス)に置かれていた。週に1度(確か木曜日)開講される「館長訓話」の時限だけ、1年生全員が世田谷校舎に出校し、剣道場(10号館5階)で総長柴田梵天先生の講話を受けるのである。最初は正座で始まり、一定時間経過すると「安坐!」の指示で楽な姿勢が許される。

 誰からどのように伝え聞いたかハッキリとは覚えていないが、館長訓話の終了後に、前述の法学部学生委員会の主催による集会が開催されるので希望者は参加して欲しいとの案内があった。法学部学生委員会は各学年から選出された学生達が中心となり活動していた。当時の集会というものは、(語弊があるかもしれないが)ちょっとリベラルっぽい学生による集まりというイメージで、参加者はほとんど無く、数人か、せいぜい十数人が集まる程度のミニ集会であった。

 何を思ったか小生、その集会に野次馬根性で顔を出してみたのである。場所も覚えている。確か10号館3階角の312教室。現在は法学部教員の研究室になっているところだ。

 教室に入ろうとすると廊下の外れに学生服を着た上級生らしき数名が屯しており、入室する学生達の様子を窺っている。集まってくる者達は私服であり、制服を着用しているのは(確か)小生のみ。案の定というか直感したとおり、小生は呼び止められ、言葉は覚えていないが短く注意(有り体に言うと「脅し」)を受けた。「(このような集会に参加したら)どうなるかわかっているだろうな!」というような趣旨だったと思う。

 もう昔のことだが、この場面をよく覚えている。
 当時の雰囲気は、ちょっと生意気な下級生などは裏に連れて行かれて九六くんろく)を入れられることなどよくあることだった。が、小生も既に「寮生」の矜持は持っていた。しかも○○(不穏当な言葉なので割愛)の5階A棟。寮生であることの意味は今日の感覚ではわからないだろうが、日々緊張感の中で生きている者にとって、脅されようが1発や2発喰らおうが想定内のことである。腕に覚えもあった。
 (何でもこの言葉で済ましてしまうが)そのような「時代」だったのである。

 上級生達を受け流して教室に入った。
 集会はやはり十名に満たないものであった。
 そこでは高野委員長から、学生委員会における活動状況などの説明があったのだと思う。

 当時の学生委員会関連の諸資料をクラウド上に整理しているが(いずれ大学資料室に寄贈予定)、随所に高野委員長の名前が出てくる。

 その中の「法学部学生委員会報告書」(S48年12月7日)を見ると、学生の意見が通った事項として、「学制服の自由化」「学生による警備廃止」「東門開放」「法文校舎の脱靴自由」「冬休みの開始時期」が記録されており、その他教育研究施設全般についても議論されているようであり、かなり広範囲の問題について検討されていたようだ。

 また、S48年11月14日付けの「法学部学生委員会報告書」の前文には、次のような記載があった。少し長いが引用する。

「明日、11月15日に全学年集会を開催する予定でおりましたところ、各学年の講義の便宜を図っていただくために、また、中村宗雄先生から法学部学生委員会にお話ししたいことがあるということで、11月13日に中村宗雄先生と会談したところ、もし集会を行うことにより何らかの成果はあるにしても、それ以前の問題として、法学部学生委員会は今まで合法的に、かつまた組織的に活動してきた委員会だけに集会を認めたくも、他の学部、その他との関連性を考えると、今の段階ではそれらに対して何らかの形で悪影響を及ぼす可能性がなきにしもあらずということで現時点では、しばらく踏み止まっていただきたいということ、そしてまた、規則上全学年集会認めていないことでもある。というこれらの理由で本学生委員会でもこの点を考慮した末、いちおう今回は全学年集会を見送り、それにかわってここに下記の日時、役員をもつて各学年会議(呼称)を開催することにいたしました。」

 法学部全学年集会(文面からすると違法であったようだ)を開くか否かという局面の緊張感が伝わってくる。

 この時、法学部学生委員会リーダーとして牽引していたのが紛れもない高野敏春先生なのだ。激動の昭和48年にあって国士舘大学法学部の改革の旗手だったのである。

 うるさ型のネガティブなことばっかり言っているオヤジだと思っている人は多いかもしれないが(小生もちょっと思っている…。失礼!)、原点(草創期)を知るものにとっては、全身全霊で国士舘法学部の建設に学生の頃から汗を流してきた先輩なのだ。

 持ち上げすぎも良くないので、ちょっとだけ別の顔を紹介する。

 数年前の小生現役時(法学部事務長時)、高野先生が心臓発作で、大学の医務室から国立病院機構東京医療センター(駒沢)の救急へ担ぎ込まれた時、病院に駆けつけた奥様と二人の娘さんにお目にかかったが、先生は三人に頭が上がらない。どうやら家庭では三対一のようである。
 聞くところによると、なんでも娘さん夫婦が住む横浜の、しかも小生宅から遠くないところへ引っ越しを考えているらしい。大変なことになりそうな予感がしている。


 実は本稿を掲載することの了解を高野先生からとっていない。

 小生が本稿を書いていることもご本人は知らない。

 後でお叱りがあるかもしれないし、削除或いは訂正を求められるかもしれないが、高野先生が定年退職されるこの節目に、あえて当時思い出と、小生の高野論(観)を記しておこうと思料しキーボードをたたいている。

 万一、クレームが入ったときは、削除・訂正することがあるかもしれないとお断りし、本稿をupすることにする。


高野先生(右から2人目)を囲んで!
 退職の年が勤続30周年の節目となった。R3年11月4日、近しい仲間達が集まり、新宿栄寿司でお祝いの会を催した。減量して頬もお腹もすっきりとされ、奥方と娘達は喜んでいるらしい!

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R4.6.27追記
 アルバムからこのような写真が出てきたので掲載させていただく。昭和50年(日付不詳/小生3年生)だと思う。法学部主催により法学部全学生を対象に剣道場で行われた中村宗雄先生追悼会の場面である。卒業生代表として中野浩一郎先輩(法学部1期/柴田家)、在校生代表として小生(法学部8期/言道部)が演壇に立ち中村先生の思い出を語った。この写真は法学会誌に掲載されたもので、よくわからないとおもうが生意気にも小生この当時ひげを生やしていた。

 

 

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