隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

国士舘ゆかりの大船観音寺を訪ねて思うこと!

大船駅西口陸橋から望む大船観音

 今日もウグイスの鳴き声で目覚めた。
 戸塚は長閑(のどか)なところで、ウグイスの他、いろいろな野鳥が一日中鳴いている。

 ここの生活も早4ヶ月目に入った。
 散歩の距離も延びて、最近は遠方まで歩いてバスで帰ってくるというような片道コースの散歩も楽しんでいる。

 遠方と言っても1時間からせいぜい2時間ぐらいまでのコースだが、目的地は、戸塚駅湘南台駅大船駅などだ。いずれも仮住まい宅からほぼ等距離の位置関係にあり、駅まで”街道”を歩いて、更に駅周辺を散策しながら、良さげな居酒屋さんを探すのも楽しみの一つになっている。

 ついこの間は遠回りのコースで大船駅まで歩いてみた。
 バスの路線に沿って歩くと約1時間強のコースだが、国道1号線(「東海道」)から県道402号線(通称「かまくらみち」)に入り、途中から脇道に外れて栄光学園の正門前を通り、「栄光坂」を下って大船駅を目指すコースだ。ゆっくり歩いて1時間半から2時間ぐらいだろうか。

 因みに、この栄光学園は中・高一貫校で、県下TOPというか、全国でTOPクラスの進学校だ。小学生の頃、仲の良かった同級生がやはり栄光から東大に入った。我が町内会の会長も同校出身でご多分に漏れず国立系大学の出身である。

 長い人生山河を歩むに、小生は、学校偏差値よりも人生の経験値(修羅場を幾つ潜ったか !?)に重きを置きたいと考えているが(対比すべき関係でないが…)、同校出身者で社会で活躍する著名人は多い。

 話しを戻して、この日、大船へ来た主たる目的は、久しぶりに大船観音を訪ねることにあった。以前の稿(Link参照)で、大船観音花田半助氏(Link参照: 写真あり)についてチョットだけ触れたが、少し書き足してみたい。

 正式には大船観音寺と称する。
 曹洞宗大本山総持寺横浜市鶴見区)系列の寺院である。

 大船観音寺ホームページの沿革に、

昭和2年2月、この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏(*明治期の官僚、政治家)、頭山満氏(*玄洋社国家主義者かと思えば元々は自由民権主義者。形容しがたい無位無官の人士で国士舘後援者の一人である)、清浦圭吾氏(*第23代内閣総理大臣)、浜地天松氏(*国士舘史研究年報2014「楓原」第6号 P197: Link参照)、花田半助氏らが集い、『観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん』という『護国大観音建立会』の趣意書を作成し、~ 」

との説明書きがある。(*: 筆者記入)

 本文中の花田半助(大助)氏のことである。
 小生が花田半助氏の名を始めて知ったのは、4級先輩の片瀬裕氏(ジャーナリスト、本学OB)からの耳学問によるものだったと思うが、故武田煕先生(国士舘高等部1期生)の著書(『國を定めるもの』)にも確か花田氏の記述があり、直接お話しを伺ったこともある。

 ずっと後年、ある雑誌に連載された片瀬先輩による『一期は夢よ -"御し難き男ども"の残影- 闘魂の士柴田徳次郎』(12回連載)には、更に詳しく早稲田時代における柴田徳次郎先生や花田半助氏の足跡が描かれている。

 少し中身に触れてみよう。
 『一期は夢よ』に、いわゆる「早稲田騒動」の顛末が描かれている。尾崎士郎の自伝的小説である『人生劇場』(青春編)は、まさに早稲田騒動がその舞台になっているのだが、かなり昔の小生がまだ大学へ入る前だったか、テレビで放映された「人生劇場」の中に、荒れる早稲田の様子が描かれた一場面を記憶している。

 早稲田騒動(大正6年)は、大隈重信夫人の銅像建立問題(大正5年)を伏線に、第二次大隈内閣総辞職(大正5年)以降の、初代学長「高田早苗」と現(二代)学長「天野為之」による学長の座をめぐる派閥争いが、学生を巻きこみ社会問題にまで発展したものであるが、その渦中に、大民団に所属する柴田徳次郎国士舘創立者)、花田半助等が天野学長を支持して学校改革の戦列に加わっていたのである。

 ここでは詳述しないが、詳しく知りたい方は学校法人国士舘による『国士舘百年誌』(通史編)をご覧いただきたい。
 一気に話を進めて、騒動の結末を片瀬先輩の『一期は夢よ』から引用させていただく。

早稲田騒動から国士舘創設へ

 ~ 騒動の顛末は、高田早苗元学長は復学せず、天野為之学長は大学を去り、しばらく学長は置かずに総長の大隈が学校運営の「万端を処理する」ということになった。そして、天野派の伊藤重治郎、原口竹次郎、永井柳太郎、井上忻治、富島綱男の五教授が解職処分となり、学長秘書の佐藤正も早稲田を追われた。

 また革新団の学生数名にも退学処分が下って騒動の幕が引かれた。革新団に加わった尾崎士郎は、学生を「暴徒」と断じる学校当局に怒って自主退学したが、「これで早稲田精神は死んだ」と嘆いた。

 革新団に加わった青年大民団は、大講堂の占拠を解いた直後の9月21日、「早稲田大学紛擾の真相とその根本問題を世に問う」という柴田徳次郎の発意にもとづき、神田青年会館で『学校騒動問題演説会』を開催する。~ 」

とある。


 今日からすれば、壮大なドラマを見ているようではないか。
 こうした経緯を経て、早稲田騒動から国士舘創設へと至るのである。
 柴田徳次郎先生以下は、自らの手で理想の教育を行おうと決意し、その理想像を幕末の志士・吉田松陰が開いた松下村塾に置き、本格的に学校建設に取り組むことになるのである。

 大正6年11月4日、国士舘義塾の開学式が麻布笄(こうがい)町の大民団本部で挙行された。次いで、大正8年、世田谷松陰神社の畔に講堂(現在の大講堂)他、諸施設が完成し、国士舘高等部(本科)が開設された。

 当時の学園幹部は、館長・柴田徳次郎、学監・花田半助(大助)、総務会計・喜多山田悌一(いわゆる国士舘三田)という陣容であった。



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国士舘史研究年報2010「楓原」第2号(巻頭に花田半助氏の写真が掲載されている)

https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol2.pdf

国士舘史研究年報2014「楓原」第6号(P197「国士舘を支えた人々 濱地八郎」)

https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol6.pdf


中西先輩(高知県議から参議院議員、中大OB)ブログ

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