隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

国士舘大学「言道部」で鍛えられた日々_弁論大会・全国遊説・選挙応援 etc.


 中・高・大とかなりの精力をクラブ活動に投入してきた。そこでは、正課では学び得ない多くのものを学んだように思う。

 まず、六中横浜市六角橋中学校)時代。
 入学時、比較的運動量の少ないと思われた卓球部を選んだつもりであったが、完全な思い違いであった。六中は強豪校で多数の入部者をふるい落とすためのトレーニング(しごき?)に耐えて生き残り、3年次には、横浜市大会でダブルス優勝という栄誉を得た。中学3年間は卓球命で、1年365日卓球づけの毎日であった。高校を選択する基準も、学力もさることながら何処高校卓球をやるか、が重要であった。

 結果的に神奈川県立川和高校に進学し卓球部に入った。だが、ステージが変わると、同校には、いわゆる70年安保闘争の余波のようなムードが若干漂っており、進級するにつれて段々と興味活動方向が変わっていくのである。

 「政治」である。
 また、この頃、生徒会にも関心を持ち、生徒会長に立候補したりもした。

 そして、大学は国士舘大学を選択した(経緯は別稿で少しふれた)。政治に関わり、且つ国士舘らしさを求めた結果、選んだクラブは言道部(げんどうぶ)であった。他大では弁論部、雄弁会、ユニークなところでは辞達学会(中大)などと呼ばれているが、国士舘では創立者柴田徳次郎先生の方針により柔道剣道と同じように言葉を探求するクラブということで言道部とされた。当時、国士舘三道と言われ、「文武」のを代表するクラブであった。

言道部時代_親友来丸兄と小生(大講堂)

f:id:inkyoclub:20210601052857j:plain

 はじめてクラブの門をたたいた日のことを覚えている。言道部の道場である大講堂国士舘発祥の建造物)を訪ねると、部員が演壇に立って、言道綱領第一号(「ヨーロッパに端を発した~」)を練習する光景とその弁論で周囲を圧倒する雰囲気にふれて、「俺もここで自分を磨いてみたい」と心の中で思ったものである。

 当時、言道部は体育会系言道部といわれていた。今日のように、マイクなど無い時代、聴衆のヤジに負けないように、逆にヤジを圧倒する声量を維持するために体練(腹式呼吸)を行いながらの発声練習(言道綱領第二号「我が国士舘大学言道部は~」天の発声法)が日常の練習の中心であった。したがって合宿も文化系のそれでは無く、体練中心の合宿となる(写真)。

言道部合宿/発声練習(羽咋市千里浜,小生2年次)

f:id:inkyoclub:20210701141853j:plain
f:id:inkyoclub:20210701140320j:plain
f:id:inkyoclub:20210701140346j:plain


 弁論大会における弁論時間は多くの場合10分であり、弁論の内容は主に政治・経済問題が中心である。弁論時間10分というと、話すスピードにもよるが、原稿は大体400字詰め原稿用紙7枚ぐらいになろうか。各自で、演題(テーマ)とそれに沿った原稿を作成し、上級生やOB(小生は、同期の来丸兄と共に伊東泰白先輩という4級上の厳しい先輩の薫陶を受けた!)、監督等の指導を受け原稿を作り込むのである。当然、関連分野の情報収集や勉強は欠かせない。
 また、質疑応答は各大学によって5分であったり10分であったりした。大学の弁論大会は弁舌するだけの一方通行ではなく、辛辣なヤジは飛ぶは、質疑応答で突っ込まれるはで、いい加減な原稿を作成すると壇上で立ち往生させられるのである。小生はそのような光景を何度も見ている。
 小生のデビュー戦早稲田大学で行われた全関東学生雄弁連盟(通称「全関」)主催による新人戦写真)で、当時タブーとされていた演題(「憲法改正へ向けて」)を設定したことから、圧倒的なヤジヤジヤジの洗礼を受けた。まだ若く、議論で負けるなどあってはならないと思っていたので、その後の質疑応答はまさに舌戦であった。
 ただし、この大会を経て、近隣の駒大、農大はじめ、明大、拓大、東大等々、各大学に多くの友人ができた。そして、これ以降、数々の弁論大会に出場することになるのである。
 余談だが、演壇に立つとき、いつも学生服の胸ポケットにペンを刺しているのだが、これは小生にとってお守り(兼武器)である。以来今日まで、ペンは常に小生のお守り代わりであり、お気に入りやいただき物のネームなどが入った記念のペンはいつも身近に置いて大切にしている。

S49_全関東雄弁連盟新人戦(早大,小生2年次)

f:id:inkyoclub:20210608172836j:plain
S50_近畿大学雄弁大会(小生3年次)

f:id:inkyoclub:20210701143448j:plain

 一方で本学が主催する大会がある。
 柴田杯争奪全日本学生優勝言道大会写真)だ。言道部最大のイベントで各大学から弁士を招聘し、毎年、盛大に行われていた。当時、各大学において「全日本」を冠した同様の弁論大会が多数開催されており、大学間の横の交流は活発だった。
 因みに、写真の前列左から3人目の弁士が手にしている優勝杯は、当時の各大学における弁論大会中、最大のカップで、誰がこれを手中に収めるかで覇が競われていた。

f:id:inkyoclub:20210701145130j:plain

 もう一つ、大事な大会を紹介しなければならない。毎年、和歌山県で開催される日本弁論連盟主催による全国大会(和歌山大会)だ。会長は東不二彦先生(当時)。元国士舘高校教諭大西貫也先生(言道部7期生)の親父殿(義父)である。長く柴田杯の審査委員としてもご指導いただいた重鎮であり、言道部は前述の大会に、毎年、部をあげて出場していた。
 再び余談である。
 東先生はいわゆる「神兵隊事件」(S8.7.11発覚_未遂に終わったクーデター計画)に連座された特異な経歴を有しておられるが、本学高等部の卒業生にも同事件に関与された鈴木善一という大先輩がおられる。小生1度だけお目にかかったことがあり、このことはいずれ別稿(国士舘OB列伝)に書きたいと思う。

和歌山大会における東先生/東先生を囲んで(東京駅新幹線ホーム)

f:id:inkyoclub:20210701163441j:plain
f:id:inkyoclub:20210701163523j:plain

全国大会(和歌山大会)優勝記念(大講堂)

f:id:inkyoclub:20210701163551j:plain


 弁論大会は、審査員による評価を得て優勝を競うものであるが、更に実践的に、全国遊説し、社会に対して諸問題を提起しその解決を訴えるという活動も行ってきた。

 写真は小生4年次に、北方領土問題対策協会(現在、独立行政法人)の要請を受け、北方領土問題をテーマに、中部地方北陸地方、中国地方を遊説したときのものである。言道部から7名の部員が参加し遊説の主力となった。

北方領土問題を訴える全国遊説キャラバン隊(総理府官邸前:当時)

f:id:inkyoclub:20210703113907j:plain


 末尾に選挙応援についてふれたい。
 小生大学4年間で、国政から県会、市会まで、およそ10回を超える大小の選挙に関わった。役割はビラ配りもあればウグイス嬢もある。
 差し障りがない範囲で書くが、まず選挙デビューは大学2年次に関わった鎌倉市長選で、円覚寺(北鎌倉)にご縁のある方が候補者であった。この時は言道部OB(というか国士舘)が中心となり、都内大学の学生も多数動員して、数十人の大部隊が編成された。仕事はビラの配布・投函等であり、小生も毎日、ビラを持って鎌倉市内の住宅地をくまなく歩いた。選挙期間中、北鎌倉の宿舎はほぼ合宿状態で、選挙の舞台裏とはこういうものか、という経験をした。

 また、ウグイス嬢(どう見てもウグイスではないが…)も国政で2回、市議選で3~4回ほど経験した。これは見た目と違ってかなりハードな仕事であり、朝8時から夜8時まで宣伝カーに乗り放し、交替するとはいえ終日喋り放し(連呼)である。選挙が終わる頃には弁士全員の声は完全につぶれていた。公選法上、当時の報酬の上限を知らないが(現在は1日、1万5千円以内)、学生からすれば充分すぎる日当をいただいた。金額は書かないことにする。

 数多くの選挙応援に関わり、そこで学んだ最大のものは、政治とは何かもあるが、やはり人間関係の何たるかであった。権謀術数あり、喜怒哀楽あり、敵味方もあり、人間関係の機微にもふれた。学生のうちにこれだけの経験ができたことは、その後の人生においても貴重な財産となった。

 

 以上、言道部における諸活動について書いてきた。「是々非々天下勇」「言行一致」「言道とは人格なり」「言道とは実践なり」「言道極意無言」…。実に多くのことを学んだ充実したクラブ生活であった。

 その後、(国士舘における)時の流れもあり、部員数も減少し、今では柴田杯も開催されていない。寂しい限りである。
 しかし、他大を見ると現在でもクラブの伝統を維持し、人材を輩出し続けている大学もある。早大雄弁会しかり、中大辞達学会しかりである。

 クラブは最初に発心した一人の先駆者からその歴史が始まる。
 「有為の人材を養成する」(学則第1条)とする建学精神が生きている限り、いつか言道部の再建を担ってくれる人材が出てくるかもしれないと密かに期待している。



R3.7.15追記
 平成24年9月24日(土)、国士舘大学世田谷キャンパス大講堂において、国士舘大学言道部創部50周年記念OB・OG会が開催され、懐かしい面々が一堂に会した。冒頭、創立者柴田徳次郎先生、言道部初代師範島津定泰先生はじめ物故者に対し黙祷及び献花が執り行われた。引き続き、言道綱領第1号(来丸秀男)、同第2号(小生)が披露され、最後に言道部部歌国士舘舘歌を斉唱し会を閉じた。

f:id:inkyoclub:20210715145252j:plain
f:id:inkyoclub:20210715151324j:plain
f:id:inkyoclub:20210715145328j:plain
f:id:inkyoclub:20210715145412j:plain
f:id:inkyoclub:20210715145450j:plain