「日の本に 生まれ出でし 幸ひを 陛下の御前で 胸にかみしめ」
(S61第2回皇居勤労奉仕団奉呈歌 詠人不知)
昭和の日に思い起こされることがある。
それは、国士舘皇居勤労奉仕団のあれこれであるが、同奉仕団は、昭和60年(1985年)、国士舘に在籍する有志教職員及び有志学生等により結成され、平成28年(2016年)に結成30周年を迎えた。30数年前の志の結集が、母校をはじめ、学内外のご理解とご支援を得て細やかな水流となり、今日までその活動が維持されてきたことは大変喜ばしいことである。
本学奉仕団の活動は、毎年時期を調整し、皇居及び赤坂御用地において4日間の奉仕活動(清掃等)に汗を流すというものである。
期間中、天皇・皇后両陛下及び皇太子・同妃殿下のご会釈が予定されており、参加する学生達にとって、憲法典に規定される天皇とは何か、また皇室の存在意義について、机上を離れ、奉仕活動という実践の中で身を以て学ぶことのできる場ともなっている。
国士舘奉仕団は、奉仕期間中、必ず一首以上の和歌を詠むことを課している。
初代大西団長(元国士舘高校国語科教諭)の校閲を経て墨書・清書し、宮内庁を通じ天皇陛下に奉呈させて頂いているが、学生らの詠む和歌の中に、彼ら彼女らがこの活動を通して何を考え今どのように感じているか、その答えが凝縮されている。
それらをまとめた和歌集『春の宮居に-国士舘皇居勤労奉仕団奉呈歌集』は、第一集(S60第1回~H6第10回、のべ参加人数260名、歌数394首)、第二集(H8第11回~H17第20回、のべ参加人数218名、歌数366首)、第三集(H18第21回~H28第30回、のべ参加人数278名、歌数382首)と発刊された。
各巻のページをめくり、一首一首を読み返していくと、国士舘皇居勤労奉仕団が何を為してきたか、言葉で説明するまでもなく実感をもって理解することが出来るのである。
前述した国士舘皇居勤労奉仕団結成30周年に際し、「思い出の記」(H29.4.29)を編集したが、以下に小生の投稿を抜粋・掲載し、足跡として残しておきたい。
国士舘皇居勤労奉仕団結成30周年に当たり、また、私的なことではあるが、自身の国士舘人生最晩期を迎え、己の人生を遡り、自身の原点でもある、なぜ国士舘を志したか、なぜ国士舘職員となったか、そして、なぜ国士舘皇居勤労奉仕団に関わったか、それぞれに通底する共通の想いを短く記してみたいと思う。
まず、自己が形成された高校時代に触れておきたいと思うが、私の高校生活は、昭和45年から48年であり、世相は正に70年安保を背景とした政治の時代、学生運動の時代であり、否が応でも政治というものを身近に感じた時代であった。自宅からほど近い神奈川大学の、学内に拠点を持つ新左翼各セクトと同大の周辺を固める機動隊との攻防戦を日常的に見てきた世代である。
その様な社会的状況の中で、高校へ入学したばかりの私は、まだ、思想も理論も、何も持ち合わせていない単なるノンポリティカルな高校生であったが、ただ、あの様な革命を標榜する集団に与しないことは勿論のこと、むしろ、その対極に起ちたいという単純な「心情」だけを有する、多感な高校生であったと思う。
転機は、昭和45年、高校1年生の時に訪れた。
私の人生を大きく変えた所謂「三島事件」が、11月25日に起こった。その時は何が何だか分からなかったが、今日まで年賀状の遣り取りをさせて頂いている当時の担任のM先生が、下校時のホームルームで、事件の概要を涙ながらに我々に語ってくれた姿を今でも鮮明に覚えている。
▼川和高校時代(卒業アルバムより)
振り返れば、それまでは1年365日卓球一筋の卓球少年であったが、あの時から私の人生は大きく舵を切ることとなった。私の高校は、横浜北部の川和高校という一応進学校と言われている高校であったが、それ以来、勉強そっちのけで、「政治」に関心を持ち、生徒会活動(写真上)にのめり込み、そして、三島由紀夫を追悼する「憂国忌」という行事に参加した際、同追悼式を執行する国士舘の関係者(当時学生、お名前を出すとご存じ寄りの方は多いと思う)と出会うこととなった。
このような経緯を経て、昭和48年4月、「歴史と伝統を尊ぶ」建学精神に共鳴し、国士舘大学法学部に入学、そして、言道部(所謂弁論部)の門を叩くこととなった。
同クラブにおける論題(弁論のテーマ)は、常に三島が唱えた「憲法改正」、早稲田大学で行われた全関東雄弁連盟の新人戦(写真下)では、恐れを知らず同テーマで論理を展開し、質疑応答で「天皇」、「自衛権」について熱い舌戦を繰り広げたことを昨日のことのように記憶している。
▼S49.10.19_全関東雄弁連盟新人戦(於.早大_小生2年次)
そして4年生、無論、卒論のテーマは「憲法改正」であった。人生の岐路に起ち、自身の将来をどうするか…、迷わず建学精神を貫く国士舘の構成員となる道を選んだ。採用されなかったときは憧れであった頭山満の如く浪人となる覚悟で、その他の道は全く考えていなかった。
幸いにも、国士舘職員となり、その後、紆余曲折と奮闘の日々が8年ほど続く。この間の事は、本日は触れずいずれ別の稿で書くこととするが、長い時間の経過を経て、昭和60年3月、大西貫也先生を始め有志職員と有志学生を中心に、第1回国士舘皇居勤労奉仕団が結成された。
実は、第1回奉仕団に小生は加わっていないが、この時期に着目して欲しい。昭和60年がどのような年であったか。昭和58年以降の所謂国士舘紛争が終結し、関係者は、これから何をなすべきか、国士舘は如何にあるべきかを暗中模索していた時期であったと思う。その様な中、有志教職員と有志学生は、その解決策を伝統的な建学精神に求め、皇居勤労奉仕団の結成へと帰結したものと思量する。
以来、30回を重ね、今日に至る。
だいぶ端折って書いてきて、末尾に、いきなりネガティブなことを言うようであるが、今日、総合学園国士舘大学は大きく発展し、これからも発展し続けるであろうが、もし、国士舘皇居勤労奉仕団が幕を閉じる時が来るならば、それは同時に、「私塾国士舘」が終焉するときであろうと強く感じている。
願わくば、志を継ぐ有為の人材が出てきて呉れんことを希うものである。 』