隠居歳時記

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5月15日に寄せて_私の上司・池松武志先生と五・一五事件

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S52_池松先生(左から2人目)を囲んで学生部鶴川分室の面々/S52_池松先生と小生


 小生は、昭和52年3月、国士舘大学を卒業し、同年4月から職員として母校に職を奉じた。配属先は鶴川校舎(現「町田キャンパス」)の学生部鶴川分室、所属長は池松武志先生(故人)であった。

 当時、国士舘の職員には、元軍人の方が多く、相当数の方が各部署に配属されており、小生が学生時の学生監(学生の訓育指導等を担当:当時の国士舘独自制度)も元陸軍大佐であり、4年間薫陶を受けた。

 所属長(学生部鶴川分室長)となった池松武志先生も陸士(陸軍士官学校45期)に在籍されていた方であるが、陸士在学中に国家改造運動に関わり放校処分となり、その後、いわゆる五・一五事件(牧野内府邸及び警視庁襲撃に関与)に連座され、禁固刑に処せられたという特異な経歴をお持ちの方であった。

 池松先生とは、遡って、小生が大学1・2年次望岳寮(鶴川学生寮)に入寮していた当時、寮監を務めておられたことが最初の関わりである。当時の望岳寮は、朝5時に寮生全員が一同に会して点呼があり、国旗掲揚の後、定期的に池松寮監訓示があるので何時も身近にはおられたが、監督者としての威厳のある近寄りがたい方であったという印象である。
 いつも訓示の冒頭、「寮監の池松です…」から始まる口調は、元寮生が集まると思い出話しのネタとなっている。

 小生の配属により、上司部下という関係に変わったわけだが、当時の池松先生は60代の後半、学生時代の印象とはかなり異なり、寡黙ではあったが、温厚優しい上司であった。小生おとなしい方ではなかったが、叱られたことは一度も無い。蛇足だが、愛妻家でもあったと思う。

 さて、引退後、自宅書庫の諸資料データ化しているが、池松先生の手記「日本魂_燃える青春_五・一五事件を顧みて」が眠っていることは承知していた。生前、池松先生から頂戴したものであると記憶している。

 手記の巻頭に「東京日野ロータリークラブ_昭和49年10月30日卓話」とあるので、恐らく何処かで公にされたものかもしれないが、小生も自身の判断で、ある団体の機関誌に掲載させていただいたことがある。

 今般、当該資料を私個人が保有することは宝の持ち腐れであると思料し、原稿用紙約25枚になるが、あらためて以下に公開し、併せてウィキペディアの関連する項にも投稿しようと考えている。

 是非ともご一読を願う次第である。

 

 

『 日本魂 燃える青春
  五・一五事件を顧みて
                  東京日野ロータリークラブ
     昭和四十九年十月三十日卓話
     池松武志(元陸士四五期生)


 私は、五・一五事件の決行に参加した。五・一五事件は、昭和七年五月十五日、海軍将校六名、陸軍士官候補生十二名(事件決行直前に士官候補生としての軍籍を失った私を含める)を主体として決行された。それは、日本の国家改造断行を目標とし、拳銃、手榴弾を使用して犬養首相等を殺傷した事件である。既に五十年以上を経過しているので、記憶の定かでないものもあるが、その点は御諒承をいただくことにして、思い出すままに記述することにする。

  私は、昭和三年四月、当時、東京市ヶ谷にあった、陸軍士官学校予科に入学した。二ヶ年で卒業するところ、二年生の夏、肺尖炎兼肋膜炎で治療のため一ヶ年休学し、卒業は、昭和六年三月で、順調者より、一ヶ年おくれたわけである。当時、士官学校の訓練は激しく、約一割、人員にして三十名位は、病気のために一ヶ年おくれる者がいた。
 私は、昭和六年四月、卒業後、野砲兵士官候補生として、希望通り、朝鮮羅南の野砲兵第二十六連隊に赴任して行った。士官候補生の隊付は六ヶ月間である。昭和六年十月、士官学校本科に入学するために、東京に帰って来た。
 本科に入学してから十日位経過した日に、士官学校予科に於て休学前の同期生であり、同一区隊(三十名位)であった、Aが会いに来た。彼の話は、日本が現在、非常な危機に際会しているので、陸海軍の青年将校を中心に、国家改造の動きがあるが、士官候補生もこれに参加したいと思って、同じ区隊であったBやCとも話し合っている。それで君にも参加してもらいたいと思う。よく考えて、若し参加したい気持があったら、数日中に陸軍青年将校の中心であるN中尉の所に行くので一緒に行こと云う意味のものであった。

 当時の世相は、深刻な経済不況の中に、地下運動の共産党員検挙が相継ぎ、満州事変勃発後の国際緊張等があり、何となく不安定な空気が漲っていたので、国家改造に向って、陸海軍青年将校、士官候補生等の動きがあるということは、私の心を大いにゆさぶるものがあった。陸軍大将への道を志して、必死に勉学中の私をゆるがしたのである。母の顔が、ちらっと私の脳裏をかすめたように思ったが、私は意を決して、A等と行動を共にするつもりで、翌日、Aにその旨を告げ、N中尉の所に行った。

 N中尉の話は次の趣旨のものであった。
一、現在の日本の危機の実状
1 君側の奸
 所謂元老等は、天皇を補弼する立場にありながら、国体の本義を忘れ、一部階層の利益確保に専念して、聖明を蔽い奉っている。故にこれが危機の根幹である。

2 特権階級
 貴族院を拠点とする華族等である。これらは、明治維新の趣旨からすれば、当然存在すべきではないのに、旧公卿、旧藩主等合体して、華族の存置を計り、元老、財閥等と結託して、神聖なる国体を我欲に利用している。
3 財閥
 三井、三菱、住友、大倉等である。これらは、特権階級、既成政党と相通じ、政府を利用して、膨大な財力(当時、世界大富豪十位内に、三井、三菱はランクされていた)を集め、それを利用してあらゆる害毒を流すと共に、更に、財力収集のために、一般庶民を貧窮に放置し、特に農村の状態を飢餓に陥いれた。
4 既成政党
 政友会、憲政会等である。
これらは、直接政治を掌る位置にありながら、前記、元老、華族、財閥にへつらい、又我欲にふける等、天皇の統治を、現実に最も汚している。
5 世界的経済不安
 当時、世界的経済不況は深刻を極め、これに対処せんとして実施した、金輸出解禁は、現実には、更に不況の度を深め、近代産業労働者は勿論、特に農村の状態は惨憺たるものであった。
6 マルキシズムの横行
 右のような状態の中に、日本の伝統に根ざし、まじめな、国家改造運動は起らず、外国より伝来した、マルキシズムが、ロシア共産主義革命の影響もあって、帝国大学の教授、学生を始め、一般知識人や労働者等に滲透し、共産者の地下運動摘発が相つぎ、人心の不安を、更にかきたてた。私の長兄も、当時、内務省警保局にあって、共産主義者の摘発を担当していたので、その実情を知ることが出来た。それは、ロシヤ共産主義革命の前夜の実状と比較して、身ぶるいすべきものがあった。
7 軍の危機
 日本の陸軍、海軍は、国体護持のために存在している。国体護持が、即ち、日本国家の防衛であり、更に進んで、国家目的の達成である。従って軍の本義は、いざという場合、天皇陛下のために死ぬことである。大東亜戦争の事実に照しても、これが如何に軍の本義であったかということが分る。
 しかるに前に述べたように、日本の現在は、国体が蔽いかくされ、一部階層の者に利用され、国体本義の加護の下にあるべき一般国民は、文字通り、塗炭の苦しみの中に喘いでいる。特に陸軍は、徴兵として来る兵員に対して、このような状態の日本国家を護るために、天皇陛下のために死ねとは云えない。殊に、農村に於ては、欠食児童のある外に、兵員の妹等が苦界に身売りする者がいる程の実情であった。従って、国体護持を本義とし、天皇の軍隊である日本の陸海軍はその存立の意義を失い、当然崩壊する。これこそ日本国体崩壊の危機なのである。

二、危機打開の方策
 右、危機の実情に対し、良心ある軍の将校として黙視することが出来ず、次の方策を立て、その目標達成のため一身を賭する。
1 現在は、軍の危機を通じての国家的危機であり、早急に且つ力強く目標を達成するために、国家改造は、軍の実力行使を主体とし、それに民間有志の協力を加える。国体の本義を明かにするために、これを蔽うている一切の妨害を除去し、本来の国民思想を恢復する。このために、次の方策を実行に移す。
2 憲法の諸機能を一時停止し、天皇大権により、国家改造の施策を整備実行する。
3 元老は廃止する。
4 華族制度は撤廃する。
5 財閥は解体する。
6 既成政党は解散する。
7 土地は国有とし、農地は農民に解放する。
8 私有財産の限度を百万円とし、民間企業の資本限度を壱千万円とする。
9 共産党その他マルキシズム系の政治又は思想運動は撲滅する。
10 国金は、一般選挙に基く衆議院と、特別選出による特別議院との二院制とする。

三、軍部以外との協力
1 北一輝
 国家改造法案を執筆して、国家改造根幹の方途を示し、中華民国革命に協力した経験のある人で、日本内外に隠然たる影響力を持っている。
2 橘孝三郎
 茨城県に愛郷塾を経営し、農村の子弟に、日本精神並びに、それに立脚した農業を教えている。
3 権藤成卿
 家業として、日本的自治経営学を持っている。
4 井上日召
 仏教の禅に基く、鍛練を以て青年を指導しながら、日本精神的行動力を培い、力のある青年を掌握している。所謂血盟団事件の指揮者である。
5 その他
 東大生Q、明大生R、陸士中退渋川等

四、国家改造への決起
 全国的に分散している陸海軍の同志が一斉に起つ。しかも非常に近い時機に予定している。

 以上のようなN中尉の話を聞いて、私の決心は、更に強固になって行った。
 N中尉の話を聞きに行った直後、十月中の或日、士官候補生等の相談に基いて、国家改造趣旨を、改造決行の時、陸軍士官学校生徒に配布する目的で、謄写版によって、私が、休日、校外で印刷して来た。他の者は、都合で外出出来ない日であった。それを同志の一人が、自分のベットの藁蒲団の下においたのを、区隊長(陸軍中尉)に発見された。同じ頃N中尉が話していた所の、非常に近い時機の、所謂十月事件が、陸軍当局に感知され、抑圧された。

 十月事件は、参謀本部にいた橋本欽五郎中佐が中心となり、全国の陸海軍将校の有志が、各々その部下を指揮して決起し、一挙に、天皇大権による国家改造を実現する計画であり、それに参加する士官候補生も三十数名にのぼっていた。
 橋本欽五郎中佐は、大使館付武官として、トルコ及びソ連にいたことがあると聞いている。トルコでは、当時ケマル・パシャがトルコの国家改造を断行したばかりであり、そこに於て、民主主義でもなく、又マルキシズムによるものでもない、所謂全体主義下の政体並びに経済を学び、ソ連に於て、共産主義下の側面である、統制的計画経済を見て来たのである。

 軍による国家改造運動は、昭和三年頃より始まったと云われ、十月事件頓座後も、運動は続き、つぎつぎと血なまぐさい事件が起きて行った。
 士官学校に於ては、十月事件関係者として、学校当局に取り調べられた者、三一六名と云われ、前述謄写版すり物のこともあって、私を含めて二名が退学処分を受けた。私の退学は、翌昭和七年一月末日であり、父母の住所である鹿児島県に、区隊長が送り届ける所を、長兄が大阪府池田市の池田警察署長をしていたので、そこに送り届けれた。
 陸軍士官学校では、私の退学後のことを案じてくれ、神戸高等工業学校に入学出来るよう手配しておくから、そこに入学するように、と云ってくれたが、私は、二月中に上京してしまった。私が軍籍を失ったのは二月十七日である。
 上京してからは、N中尉が、明治神宮の近くに、アパ ートを借りていたので、そこに寄居した。
 私の気持としては、依然、国家改造運動に挺進する気持であった。
 N中尉の所に寄居している間に、改造運動関係の色々の人に会った。
 安藤中尉は、おとなしそうな、まじめな人柄で、改造運動と、自分の家庭や、部下との間の一種の矛盾とも云うべき、苦衷が感じられた。中尉は、後に、二・二六事件に参加し、刑場の露と消えた。
 栗原中尉は、若さと、決意に充ちて、改造運動に邁進しているという感じであった。中尉も後に、二・二六事件で刑場の露と消えた。
 相沢中佐は、至極温厚な人で、国家改造への決意と苦衷を秘めながら、慈父のような印象があった。この人は後に、軍務局長永田鉄山少将を斬った。
 井上日召は、天皇は神でなければならない、と云ったことを覚えているが、印象としては、特に残っていない。N中尉と何か話し合っていた当時、血盟団事件の渦中であった。
 N中尉が、暫く留守することになった頃、ずっと前に、 陸軍士官学校を中退した、渋川善助がやって来て、N尉のアパートに寄居することになり、私と同居した。彼は、必ず毎朝、欠かさず、坐禅していた。線香に火を点じて立て、隣室で坐禅していたが、印象も、禅の雲水という所であった。格段の話もせず、毎日のように出歩いていた。井上日召西田税等と親しく、北一輝宅にも、よく行っていたようである。
 或る日、私を誘って、北一輝宅に連れて行った。その場所は、くわしく覚えていないが、板塀に囲れた、広大な邸宅であった。北一輝は、快く会ってくれた。毎日、朝夕、法華教を読んでおり、時に応じて、頭に閃くものがあると云っていた。静かな重々しさがあり、しかも何となく、親しみが感じられた。

 血盟団事件は、陸海軍将校、その他有志による、国家改造運動が、全国一斉蜂起計画の、十月事件挫折後に取られた、多数方式で行かなければ、先づ、一人一殺主義で行き、国家改造への実行端緒を摑もうとしたものである。それも、井上準之助団琢磨両氏を倒した後、井上日召の自首により、終りを告げ、国家改造への方途には、直接の効果を来たさなかった。

 井上日召自首の直後、昭和七年三月頃、海軍側同志よりの誘いにより、士官候補生有志一同出向くべき所、坂元と私が一同を代表して、出掛けてゆき、海軍側M中尉、中村中尉両名と会った。場所は記憶していないが、会合の秘密を保つために、海軍側で借りた、二階建の空家であった。

 海軍側の話の趣旨は次の通りである。
 十月事件が失敗したので、計画的、全国的決起は実現が六ヶ敷いので、血盟団による、一人一殺主義で、国家改造への端緒を摑もうとしたが、井上日召の自首で後が続かない。それで、小人数局地的の実行で、戒厳令を誘発し、一挙に国家改造に突き進むことが必要である。陸軍側に相談したが、彼等は、全国一斉方式にこだわり、自重論を云って、我々の決行に賛成しない。士官候補生は是非参加して欲しい。愛郷塾は、参加を承知してくれた。
 坂元と私は、士官候補生一同と相談して、返事すると云い、その会合を打切った。
 その直後、士官候補生は、私を含めて、十二名、海軍側の計画に従って、決行することにし、それを海軍側に伝えた。
 当時、私は、陸士中退の身で、体が空いていたので、士官候補生を代表して、海軍側との相談、連絡に当たり、次いで、海軍側も動きが、思うに任せないので、襲撃ヶ所の調査、偵察もやらなければならなかった。

 決行の目的は、犬養総理及び牧野内府を殺害して、異常な政治的衝動を、中央並びに全国に与え、次いで、警視庁と決戦、又東京周辺の変電所を破壊して首都に大不安を惹起し、首都の戒厳令を誘発、在京並びに全国の陸海軍同志により、一挙に国家改造へ、踏み切らせることにあった。特に、今度の決行につき、直接連絡はなかったが、平素よりの盟約から云って、戒厳令の誘発、改造の断行については、在京のN中尉を中心とした陸軍側同志に、全幅の期待を置いていた。
 従って決行の条件は、第一に犬養総理と牧野内府の在宅並びにその確認であり、第二が、人数的にも多数を占める、士官候補生の行動が決行直前迄、士官学校当局に感知されないために、外出可能な休日であることが必要であった。その他、変電所破壊の影響を、考慮して、時刻的に、夕方に続くことが大事、であったが、当時、士官学校休日の帰校点呼は午后五時であり、この時刻を余り過ぎては、同志士官候補生の未帰校から、決行が感知されるおそれがあり、戒厳令誘発への、陸軍側将校動きを考えると、決行時刻の決定は、やはり、重要なポイントであった。

 武器は、拳銃、手榴弾を使用することにし、その手配は海軍側が引き受けたが、拳銃は、陸軍側同志に感付かれないように揃えることは、困難で、結局、充分には用意出来なかった。

 決行の日を五月十五日(日曜日)に絞っていったが、前述したように、犬養総理、牧野内府の在宅確認が問題であった。私はその頃、毎日のように、首相官邸、内府邸を偵察していた。内府邸は、白金三光町にあり、裏が断崖で、広さも大したことはなく、休日には殆んど在宅していた。正門の警備巡査は、内府在宅の時は、正門の稍外側に立ち番しており、不在のときは、正門に居なかった。それで、内府の方は、五月十五日決行の時の在宅は大体確実であり、又その直前の様子で、警備巡査のあり方により、在不在を判断出来た。

 右に反し、首相官邸の方は、簡単に行かなかった。広さが相当にあり、出入門が表門と裏門(秘書官、又は邸内の人達の私用、雑用の出入口であった)があり、警備も極めて厳重で、表門等は、立ち止って中の様子を見ることは出来ない位であった。
 私は、首相官邸付近の割と精密な地図を入手し、(それが市販のものであったかどうかは記憶にないが、極秘的な入手でなかったことは確実である)これを拡大描写して、それに、偵察により窮知し得たことを記入していた。これは、決行直前に海軍側に渡した。

 五月十五日首相在宅の件については、多分新聞紙上であったと思うが、首相が在宅しなければならない行事が十五日の夕方頃、官邸内であることを、十二、三日頃知り、それを、多分電話によって、新聞社か、政党関係かに確かめて、確認し、直ちに海軍のM中尉に連絡した。

 かくて決行は、五月十五日午後五時半ときまり、襲撃目標毎に、各班は、集合場所と、時刻をきめ、襲撃後出来るだけ早く、警視庁前に集合、警視庁と決戦することにした。警視庁は、当時、左翼による大事件になやまされ、それに対処するために、所謂新選組などを用意していると云われていたから、これとの決戦は、さぞかし、手ごたえあるものと期待していた。

 右等のことは、私が士官候補生を代表して、当時、霞ヶ浦海軍航空隊にいたM中尉と、相談、連絡し、士官学校内の同志に、主として、坂元を通じて分るようにしていた。(後に、民間の裁判で、検事が論告求刑の中に、池松がいなければ、この事件は起り得なかったろうと云い、求刑十五年でも軽過ぎると云った所以である)

 坂元との連絡は、夜間か、人目のつかない時に、道路に面した、生垣又は障壁を隔てて、書きものにして授受していた。坂元には又、この連絡に協力する、下宿の娘がいて、彼女が非常に役立ったことを覚えている。下宿とは、各県の出身士官学校生が、校外民家の部屋を借り、休日外出時の休憩、食事又は会合等に使用していた所である。

 いよいよ決行の当日である。
 私は、海軍側と、事件決行をすることに決めてからは、自重論の陸軍側同志の所に居るのは、よくないので、N中尉のアパートを出て、別の所に部屋を借り起居していた。
 決行の前日であったか、多分、同志士官候補生を通じて、N中尉が、至急、私に会いたいから来てくれという話があった。
 私は、決行前に、N中尉に会いたいが、どうしたものかと迷っていたので、早速、会う気になり、五月十五日、決行当日の朝早く、N中尉のアパートに訪ねて行った。
 N中尉は、決行の日を知らせるように、私に云ったが、それは出来ないと答えると、拳銃が足りないだろうから、拳銃をやる、それで、決行の日取りを知らせろと、再度、云ったが、私は教えなかった。非常に苦しかったが、やむを得なかった。只、陸軍側同志の中心として、又陸軍士官候補生同志の指導者として、決行後の彼の善意と善処を期待するだけであった。彼としても亦、今日が決行の当日であろうとは思ってもいなかったようである。分れぎわに、決行の日取りは教えられないが、私達が決行したら、必ず、貴方達は、それに引きづられるであろうと云った。我々決行の影響の重大さと、国家改造牽引への自信と、陸軍側への期待をこめたものであった。
 彼は、その朝、弁当箱大の真黒い羊羹を出し、ナイフで切って私に食べさせてくれた。それは今でも昨日のように思い出される。

 決行の分担で、私は、第二組の対牧野内府に属し、集合場所は、泉岳寺前の多分蕎麦屋であったと思うが、食堂めいた家の二階であった。内府邸はその近くにあった。

 定刻午后五時頃迄にM中尉、私、士官候補生三名、計五名全員が集った。私の背広服以外は、皆軍服であった。
 先づ、皆は私に、牧野内府の在宅を確かめた。私は、集合場所に来る直前にも、内府宅を見て、警備巡査の様子から、内府の在宅を確めているので、在宅間違いなしと皆に答えた。次いで武器の配布をした。M中尉は拳銃のみ、私は拳銃と手榴弾、士官候補生は三人共手榴弾のみであった。別にM中尉が、事件決行の趣旨を印刷した謄写の激文を用意して来ていた。警視庁へ行く途中散布するつもりであった。

 集合場所から出掛ける直前、M中尉が皆に次の事を話した。
 警視庁との決戦が大事であり、内府邸から警視庁迄遠いから、第二班は、牧野内府の在宅に係らず、邸内には、入らず、外から手榴弾だけ投げ込んで、警視庁に直行することにする。私始め士官候補生等は意外に思ったが、決行に際しては、年長者の指揮に従うとの約束もあり、今となってはM中尉の言に従う外なかった。

 午後五時半近く外に出て、私が先に道路に出て、通りがかりのタクシーを止め、全員乗り込んだ。私は拳銃を持っていた事もあり、運転手に指示する関係から、運転手の左側の助手席に乗り込んだ。

 数分で内府邸の正門に着いた。牧野内府在宅のしるしに、警備巡査が門の外側に立っていた。M中尉と私が車を降り、門の方に向うと、警備の巡査が近付いて来たので、M中尉が、拳銃を一発撃ち、同時に、私が手榴弾を邸内に投げ込んだが、爆発音はきこえず、不発に終ったようである。警備巡査は、拳銃を発射され、すぐ、中に走りこんだ。(彼がこの時負傷したことは後に聞いた)
 M中尉も私も車に乗り込み、私は、運転手に、警視庁に向うよう、指示した。運転手も既に事の異常を感じたであろうが、私が、彼の左傍にいて、右手に拳銃を持っていたので、彼はすっかり動転し、車のスピードを早め、交通信号を無視し、歩道に乗り上げたりして、走った。途中、決行の趣意を書いた激文を散布して行った。

 我々が登視庁に着いた時には、何の動きもなく、不断と変らない様子であった。我々は意外な思いをした。その頃には、首相官邸も、大騒ぎの筈であり、その他、政友会本部、日銀等が襲われて、とっくに、警視庁に通報が来ており、強力な密備隊、所謂新選組等が、待機か、出動中とのみ思い込んでいたのである。
 警視庁の表玄関を前にして、一同車を降り、M中尉だけ、車の側に立ち、拳銃をかまえていた。士官候補生等が、各自手榴弾を警視庁に向って投げ、そのうち二発位が爆発したら、玄関口に、正私服入り乱れて数十名、どっと出て来た。M中尉が、撃てと叫んで拳銃を一発発射し、私も玄関口の人数に向って一発撃った。玄関口の人達は何の抵抗もなく、拳銃の発射音に驚いて、我れ先にと、中に逃げ込み、その後何の反応もなかった。
 しばらく様子を見ていたが、他の班の者も来ず、警視庁も反撃の様子がなかったので、M中尉の指揮で、一応、憲兵隊本部に、引き上げることにし、車で憲兵隊本部に向った。
 その時、私の感じたことは、拳銃を一発撃つ迄は感じなかったのに、一発撃ってからは、もっと撃ちたいという、むしろ衝動的なものを感じ、それを、非常な心残りとして、一同について行ったということである。

 憲兵隊本部に着いたとき、隊長であったと思うが、ていねいに我々を迎え入れ、何の拘束も受けなかった。同志一同の話合いでも、決行後は、憲兵隊本部に引き上げるという云い方をしていたので、自首する意味とか、拘束を受けることとか考えていなかったから、憲兵隊本部内の空気は当然と思っていた。
しばらくして、他の班も来着し、首相を倒したことを聞いた。そして、変電所襲撃の成果を待ったが、電灯も消えず、陸軍側からの戒厳令誘発の効果も出て来なかった。

 幾時間を経てからか記憶にないが、やがて憲兵隊長より、話があり、一応衛戒刑務所に行くことになった。この時も、我々は手錠等の拘束もなく、拳銃等を差出したのみで、自動車に乗り込み、衛戒刑務所のある代々木に向った。私のグループは、私の外、士官候補生A、萩原・坂元・西川であった。我々に付いているのは、運転手の外、憲兵下士官一人であった。

 車の中でAが云い出して、このまま代々木に行ってしまっては、目的も達し得ず、動きも取れなくなるから、ここで同乗の憲兵から、拳銃を奪い、今一度やろうではないかという相談を始めた。あわや、その通りなるかと思われたが、A、萩原(後に支那の五礼原で敵の包囲下切腹して果てた)の強硬論に対し、西川が自重を説き、私が西川に賛成して、そのまま衛戒刑務所に着いた。

 後で聞いたことであるが、私が決行当日に朝、会ったN中尉は、我々が事を起すや、陸軍側在京の同志と共に、完全武装して、陸軍省に乗り込み、陸軍大臣荒木に、ひざづめ談判で、我々の志を無にせず、一挙に国家改造断行へ踏み切るよう、長時間にわたって迫ったそうである。私はそれを聞いて、今更のように、N中尉の至情を憶い、当日朝のことを思い出した。

 衛戒刑務所に着いてから、二ヶ月位経た頃、当局より、話があり、私は民間裁判にまわることになり、市ヶ谷の未決監に移った。
 陸軍当局としては、刑事交渉法により、私が軍籍になくても、同志士官候補生同志と同じ立場であるから、一緒に軍事裁判に持って行こうとしたが、検事局がどうしても承知しなかったのだそうである。私は、むしろ軍人としての事情と意見を、私以外に民間の裁判に出ることを、絶好の機会として期待した。

 民間の裁判に於て、裁判所も私の立場を理解して、長時間(毎日四時間位づつ三日間にわたった)陳述の機会を得、予備的にも、陳述の趣意を書いて提出しておいたので、誤りのない陳情が出来た。

 裁判で印象に残ることは、意外に多くの減刑歎願書が殺到したこと、私の兄と小学校時代同期であった弁護士が、私の希望を容れて、私を極刑に処すべきであると、弁論したこと等であった。 』