▼昭和天皇聖蹟
横浜駅から徒歩10分の位置、旧神奈川宿を望む高島台の高台にある。今は住宅地の片隅にひっそりとたたずんでいる。
本日は昭和の日である。
小生、いくつか散歩コースを設定しているが、今日は横浜駅へ向かう散歩コースを延長して、最近ネットで知った昭和天皇ゆかりの地を巡ってみることにした。
小生宅から横浜駅まで約3.5㎞。
天気予報によれば今日は午後から雨とのことである。10時過ぎに家を出て、時折パラパラと雨が落ちてきたりしたが構わず歩を進めることにした。
途中、いつものコースを少し迂回し、旧神奈川宿の高台に位置する高島台にある「昭和天皇 聖蹟」(写真上)を訪ねた。
小生の関心事(歴史)の範囲で、少しだけこの周辺を紹介してみる。
まず、この高台を下った直ぐ先の旧東海道沿いに、坂本龍馬の妻、おりょうさんが仲居として働いていた老舗料亭「田中家」(写真下)がある。田中家は歌川広重にも描かれた神奈川宿の旅籠「さくらや」の跡に、文久3(1863)年に創業されたものである。敷居が高くてまだ入ったことはない。
もう一つ、写真(上・下)の緑色の屋根は本覺寺会館である。本覺寺の本堂は道を挟んだ左手方向にあるのだが、ここは幕末期、アメリカ領事館となっていた。文久2(1862)年の生麦事件の際、薩摩藩士に切られた英国商人が流血しつつも馬を飛ばし助けを求めた場所である。
さて、「昭和天皇 聖蹟」はどのような史跡か。
石碑に刻まれた碑文を紹介しよう。
「聖蹟
大正十二年九月一日 我カ市ノ大震災ニ罹ルヤ 攝政殿下ニハ 十月十日ヲ以テ我カ市ニ行啓アリ 畏クモ玉趾ヲ此ニ止メサセラレ 焦土ト化セル全市ノ惨状ヲ矕ハセ給ヘリ 因テ碑ヲ此ニ建テ之ヲ後世ニ傳フ」
昭和天皇がまだ大正天皇の摂政の頃、関東大震災の直後にここ横浜の地に行啓されたのだ。
話が飛ぶが、関東大震災というと親父を思い出す。
小生が小さかった頃、親父は震災の3日前に(駿府で)生まれたと、よく聞かされていたからだ。その後親父は中国戦線を戦い、終戦後、復員して横浜で警察官になった。横浜で母と出会い結婚して小生と弟が生まれた。実は小生等が生まれた場所は(今は無いが)ここから目と鼻の先の産院である。何の脈絡もないが何か感ずるものがある。
そんなことを考えながら高島台の高台にて、摂政宮殿下(昭和天皇)がご覧になられたであろう焦土の横浜と、眼前の復興し発展した今日の横浜とを頭の中で対比させながらしばし感慨にふけった。
現実に戻り、碑に合掌し横浜駅に向かった。
久しぶりに市営バスに乗って、雨が本格的に降り出す前になんとか帰り着いた。
この日約4.5㎞を歩いて歩数は11,040歩であった。
▼高島台の高台より青木橋(旧東海道)方面を望む
▼坂本龍馬の妻 おりょうさんゆかりの老舗料亭「田中家」