本日(R3/12.14)、冷たい雨降る中、鉄道を乗り継いで泉岳寺(港区高輪)を訪ねた。
赤穂浪士の何たるかを、はじめて耳にしたか知ることになったのは、おそらく親父が切っ掛けではなかったかと思う。最近のことはわからないが、小生がまだ小・中学生の頃(昔)、12月14日が近づくと必ず何処かの局で忠臣蔵が放映されていたものだ。親父もよくそのような番組を見ていて小生に解説してくれた。歴史が好きで、小生の歴史好きも親父の影響が大きいのかもしれないと思っている。
いつ頃かはっきり覚えていないが、かなり以前、泉岳寺をはじめて訪ねたのも親父と一緒だった。我が家の菩提寺が泉岳寺からほど近い港区白金にあったことから、墓参のついでにすこし足を伸ばして訪れたものと記憶している。まだ、四十七士の墓地が現在のようにきれいに整地される前であった。
今日はあいにくの雨であったが、その雨の中を実に多くの参拝者が行列をつくり、浅野内匠頭はじめ四十七士の墓前に香を手向けていた。小生も線香を求め、一人一人の名前をくちずさみながら、時間をかけて墓碑をまわり手を合わせた。
唐突だが、帰り際、朝読んだ産経新聞の論説委員長・乾正人氏のコラム(「風を読む」)を思い出した。タイトルは「12・14と真珠湾攻撃」である。記事の内容にはふれないが、次のように締めくくっている。
「『初一念(しょいちねん)』を忘れた日本人の行く末を、内蔵助も案じていることだろう」
尻切れトンボで申し訳ないが、気になる方は検索してみてください。
▼泉岳寺中門と山門
▼墓所全景
上は四十七(八)士の墓所全景である。四十八士? 泉岳寺ホームページから以下の説明文を引用させて頂く。写真右の墓碑配置図を参照していただければと思う。
「赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。
ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。
泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。
また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります(明和4年(1767年)9月建立)。したがって泉岳寺の墓碑は48墓あります」