隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

7・8月の雑感_リフォーム完了!・盆踊りの運営に参画!・78回目の終戦の日靖国参拝・時々「酒」


 前回の投稿が6月26日だから、もう一月半以上、何も書いていない。

 まだ外構工事を残しているが、とりあえず母屋のリフォームが完了し、神大寺(自宅)に戻ってきたのが7月1日。それから「物」の整理と併行して月末に迫った町内会の盆踊り準備と実施、事後処理に明け暮れ、今日に至っている。

 2年前の2月にブログを始めてから、何も書かなかった月は無かったが、先月(7月)は全く手付かずで、呑む時間はあっても!? ゆっくりとパソコンの前に座っている時間は殆ど無かった。

 とうに引退して隠居のゆとりを持ちたいところだが、それなりに慌ただしい時間を過ごしたことも現下の「状況」であり、今日までの時間の流れを書いて7月・8月の記録としておこう。

 

7.1_自宅リフォーム(第1期)完了!

 自宅に戻ってきたはいいが、それからが大変で、毎日、リフォームの対象区域外(母屋以外)に退避させておいた積み上がった段ボールの山を崩しては、これは何処何処に置こうとか、これは置き場所が無いのでとりあえず保留!?とか…。
 一月半経った今も、そんなことをやっている。

 今まで何度も段階的に「断捨離」を行ってきたが、今回を最後の断捨離と定めて「物」と「思い出」を整理している。その中には、今まで手を付けられなかったお袋の嫁入り道具であった桐の箪笥や着物類であるとか、自身の蔵書等もある。お袋関係は今年、七回忌を迎えたこともあり、この時期に一つのけじめを付けようと考えていた。

 書籍もそうである。
 写真と同じで、書籍には歴史があり、その本を人生のいつ頃読んだか、という記憶がある。さすがに全ての書籍という訳にはいかなかったが、大きな段ボール箱で20箱ぐらいは整理(ブックオフに売却)した。それまで、本の重みで開かなかった書棚最下段の扉が開くようになり、そこからまた、古いレコードやカセットテープが出てきた。思い出はそこかしこに眠っている。

 

7.29_神大寺北町盆踊り

 4年振りに開催された神大寺北町(神奈川区神大寺4丁目)の盆踊り大会である。
 小生は役員として初めて運営に携わった。小さな町の小さな盆踊りだが、イベントの企画・実施、そして事後の整理はそれなりに大変である。小生は主に会計を担当したが、年度初めに組まれた予算の範囲内で完結できるものと思っていたが、予算の倍近い寄付金を集めてもなお、終わってみれば(大)赤字である。

 会計の苦労は会計を担当した者にしかわからない! 今、会計処理に四苦八苦しているところである。

 

7.31_ホームグラウンド「まぐろや」(新横浜)にて

 忙中閑あり。昭和の居酒屋「新横のまぐろや」にて、マグロならぬ鰻を食いながら一献。相棒との定期交流会である。いつかここの社長(老店主)を紹介してみたい。絵になる人である。

 

8.5_八重洲地下街にて国士舘有志OB会

 岡山県からS大兄が上京し、急遽この日の15時半、八重洲地下街に集まることとなった。このメンバーが集まると、やはり話題は昨今の国内外の情勢そして母校のこととなる。毎回、熱を帯びた議論になる。

 

8.14_78回目の終戦の日 靖国神社参拝

 台風7号の接近により、15日を繰り上げて14日に参内した。終戦の日の前日の靖国神社は静かで、明日予想される各種団体による神社周辺の喧噪も無く、社殿にて「240万の御霊安かれ!」と心おきなくお参りさせていただいた。

 

8.15_相模大野「鰻の宮川」にて一献

 我がグループは夜飲むことが少なくなった。
 「三時から飲み」、「四時から飲み」。明るい内から飲んで暗くなる前には帰宅するようにしている。この日は12時集合。「正午から飲み」である。今年、国士舘を引退した伝拳のIも元気そうで、この顔ぶれが集まると決まって昔話、それも危ない話になる。内容には触れない。

 

 

 

同期生紹介!_友、浦和より来たる!

 浦和から友人がやってきた。
 「崎陽軒」本店で待ち合わせし、久しぶりに呑むことになったのである。

 このブログでも古い友人(同期生)を何名か取り上げた。
 小生、付き合いは広い方だと思っているが、こんな面白い男も珍しいので少しだけ紹介してみる。因みに、無理矢理だが本人の同意は取ってある。

 写真の男だが、国士舘関係の事情通の方にはすぐにお分かりになるかもしれない !?
 そう、N大兄である。

 どう紹介したら良いか。
 大学1年生からの付き合いだが、折々に連絡を取り合って50年付き合ってきた。彼と小生とはおよそ180度タイプが異なり、だからこそ付き合ってこれたのかもしれない。

 大学1年次のNは、既に某倶楽部(未公認団体)に入っていたが、1年生でありながら時に蛇腹(学ラン)の前をはだけて学内(当時の国士舘である!)を闊歩しており、そのことを上級生から咎められようがヤキを貰おうが意に介さないといった風で平然としていた。

 図太いというか小さなことを気にしないというか…。
 喧嘩は当たり前、かといってとことん悪(ワル)ではなく、明らかに小生とは違う大胆で型破り、比較の仕様もないが、良く言えば大器の片鱗があり、併せて、金銭感覚が有ったのか無かったのか、商才のようなものも見え隠れしていた。

 小生の常識をはるかに越えていく、国士舘にはこんな奴が集まってくるのか、と思わせるような男であった。

 恐らく将来はフィクサーのような途轍もない大物になるか、或いは道を踏み外して裏街道を行くか、小生の目にはその様に写っていた。

 どうやら彼は、ほぼ前者の道を歩んだようである。
 宮仕えをしたことは無い。
 大体、組織におさまるような器では無い。

 小生の知っている限り、空手の道場を主宰し手広く運営したり、某民族派団体の代表格であったり、或いは産廃関係の会社を経営したりと、所々グレーなところはあるが、黒では無いという道を歩んできて、お互いに疎遠にもならず69才になったと言うわけである。

 崎陽軒でバイキングに紹興酒を呑みながら近況と新宿界隈の "OBの動向" を語り合ったが、何やらまた才覚? を発揮して小生には良く分からない事業を考えているようだ。あと10年頑張って、もうひと花咲かせたいようであるが、小生のように年金生活を送っている者とは、やはりスケールが違うようである。

 

 

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水無月の雑感_神大寺から北鎌倉へ! 黄梅院でのサプライズな出来事!


 先週の火曜日、週一の学援隊の当番を終え、リフォームの進捗状況を確認しに自宅へ向かった。

 まずは郵便受けをのぞく。
 いつもまとめて届けて貰っている1週間分の新聞の束を引き取った。
 今、戸塚では新聞のない生活を送っているが、毎朝、紙媒体の記事を読まないとどうも一日が始まった気がしない。一応、タブレットスマホで主要各紙のニュースサイトは閲覧しているが、長年、紙媒体のメディアに慣れ親しんできたこともあり、愛読紙ぐらいは紙面を大きく広げて、見開きで全体を俯瞰したいのだ。ポストから新聞を回収すると、翌日から数日かけて1週間を溯りながら情報を確認するのだが、読み終わった新聞を積み上げていくと、1週間という「時」がどういうものかを物理的に感ずることができるのである。

 家は大部工事が進んでいた。
 外壁も、密かにこれにしようと決めていたチタンレッドのアンティークレンガ調の壁材(写真)が、西側と南側の外壁の大部分に施設されており、内装の壁紙も、ちょうどこの日から貼られようとしているところだった。
 進捗を確認し、一応一安心。



 自宅の様子を確認すると、いつもであれば「むさしの森珈琲」館に向かうところだが、何故かこの日は、急に思い立って鎌倉へ向かうことにしたのである。

 横浜新道から「横横」(よこよこ)に入り、日野インターから北鎌倉を目指す。
 行き先は既に決めている。

 まずは明月院
 紫陽花(あじさい)寺だ。

 昨日までの雨も上がり、ひょっとすると混んでいるかなと思ったが案の定、駐車場から明月院に続く道は人の列。境内も人で溢れていたが、それ以上に所狭しと咲き誇る紫陽花の花・花・花。
 歳をとったせいかもしれないが、小生のような者でも、花に囲まれていると、四季の彩りの中に花鳥風月を感ずることこそが、最高の贅沢ではないかと思えるようになってきた。
 この日はまだ梅雨に入っていなかったが、次は、雨の日にEOSと共に訪ねてみようと思ったところである。

明月院鎌倉幕府五代執権北条時頼墓所境内の紫陽花)

 

 次に向かったのが円覚寺の黄梅院。
 本日の最終目的地である。

 小生、円覚寺との関わりは長い。
 大学1年次、円覚寺関係者の選挙に関わったことは以前の稿ですこし触れた(Link参照)。以来、年に一度(以上)は必ず訪れる場所である。

 円覚寺総門を入り、坂を登り最奥の黄梅院を訪ねた。
 階段上の門を入り、正面左手垣根の扉を開け、奥の柴田家墓所を訪ねようとしたところ、途中でお二人のご婦人が立ち話をされていた。

 どこの誰とも判らぬ者が、勝手に垣根を越えて侵入してきたので、当然のことだが小生を誰何するような視線を感じ、会釈をして参内した目的を伝えようとした。お一人は当院で作務をされている方のようであり、もうお一人は、まじまじと顔を見つめてしまったが、確かに見覚えのある…、柴田郁子先生ではないか !!

 ご挨拶をし、立ち話の後、墓所のお参りをさせていただいた。
 しかる後、再び立ち話であるが短い時間、四方山の話しをさせていただいた。

 お話しを伺いながら、小生はつくづく迂闊な奴で、今日が6日、徳文先生の月命日(命日は4月6日)であることを郁子先生と話しをする中で気付かされたのである。

 そして、何故今日、いつもであれば「むさしの森珈琲」館へ行くはずのところ、急に此処に来ようと思い立ったのか、理解の及ばない不思議な感覚に陥ったのである。

 郁子先生からは、此処円覚寺の受付で大西先生に呼び止められ思いがけない出会いがあったこと等を伺い、小生からは、後輩の伊井氏が徳文先生と一緒にブラジルを訪問した際の「ブラジル紀行」を書く予定であること等を伝えた。

 思いがけない一瞬の交錯であったが、有意義な時間を過ごさせていただいた。
 このことは大西先生と伊井兄に報告し、大西先生からは「郁子さんは月命日にはずっとお参りされています。~想いが深い情のある方だと思いますね。」伊井兄からは「私も4月6日に黄梅院に行き線香をあげてきました。紀行文もそろそろ重い腰を上げなければ。」とのことであった。

 ここで、
 小生の悪い癖なのだが、一応、先生のご了解を得て1枚だけ写真を撮らせていただいた。公開についても、無理矢理ご了解をいただいたつもりであり、ここに掲載させていただいた。

     一期一会に感謝。
 ありがとうございました。

円覚寺黄梅院柴田家墓所

 

 

 

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国士舘ゆかりの大船観音寺を訪ねて思うこと!

大船駅西口陸橋から望む大船観音

 今日もウグイスの鳴き声で目覚めた。
 戸塚は長閑(のどか)なところで、ウグイスの他、いろいろな野鳥が一日中鳴いている。

 ここの生活も早4ヶ月目に入った。
 散歩の距離も延びて、最近は遠方まで歩いてバスで帰ってくるというような片道コースの散歩も楽しんでいる。

 遠方と言っても1時間からせいぜい2時間ぐらいまでのコースだが、目的地は、戸塚駅湘南台駅大船駅などだ。いずれも仮住まい宅からほぼ等距離の位置関係にあり、駅まで”街道”を歩いて、更に駅周辺を散策しながら、良さげな居酒屋さんを探すのも楽しみの一つになっている。

 ついこの間は遠回りのコースで大船駅まで歩いてみた。
 バスの路線に沿って歩くと約1時間強のコースだが、国道1号線(「東海道」)から県道402号線(通称「かまくらみち」)に入り、途中から脇道に外れて栄光学園の正門前を通り、「栄光坂」を下って大船駅を目指すコースだ。ゆっくり歩いて1時間半から2時間ぐらいだろうか。

 因みに、この栄光学園は中・高一貫校で、県下TOPというか、全国でTOPクラスの進学校だ。小学生の頃、仲の良かった同級生がやはり栄光から東大に入った。我が町内会の会長も同校出身でご多分に漏れず国立系大学の出身である。

 長い人生山河を歩むに、小生は、学校偏差値よりも人生の経験値(修羅場を幾つ潜ったか !?)に重きを置きたいと考えているが(対比すべき関係でないが…)、同校出身者で社会で活躍する著名人は多い。

 話しを戻して、この日、大船へ来た主たる目的は、久しぶりに大船観音を訪ねることにあった。以前の稿(Link参照)で、大船観音花田半助氏(Link参照: 写真あり)についてチョットだけ触れたが、少し書き足してみたい。

 正式には大船観音寺と称する。
 曹洞宗大本山総持寺横浜市鶴見区)系列の寺院である。

 大船観音寺ホームページの沿革に、

昭和2年2月、この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏(*明治期の官僚、政治家)、頭山満氏(*玄洋社国家主義者かと思えば元々は自由民権主義者。形容しがたい無位無官の人士で国士舘後援者の一人である)、清浦圭吾氏(*第23代内閣総理大臣)、浜地天松氏(*国士舘史研究年報2014「楓原」第6号 P197: Link参照)、花田半助氏らが集い、『観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん』という『護国大観音建立会』の趣意書を作成し、~ 」

との説明書きがある。(*: 筆者記入)

 本文中の花田半助(大助)氏のことである。
 小生が花田半助氏の名を始めて知ったのは、4級先輩の片瀬裕氏(ジャーナリスト、本学OB)からの耳学問によるものだったと思うが、故武田煕先生(国士舘高等部1期生)の著書(『國を定めるもの』)にも確か花田氏の記述があり、直接お話しを伺ったこともある。

 ずっと後年、ある雑誌に連載された片瀬先輩による『一期は夢よ -"御し難き男ども"の残影- 闘魂の士柴田徳次郎』(12回連載)には、更に詳しく早稲田時代における柴田徳次郎先生や花田半助氏の足跡が描かれている。

 少し中身に触れてみよう。
 『一期は夢よ』に、いわゆる「早稲田騒動」の顛末が描かれている。尾崎士郎の自伝的小説である『人生劇場』(青春編)は、まさに早稲田騒動がその舞台になっているのだが、かなり昔の小生がまだ大学へ入る前だったか、テレビで放映された「人生劇場」の中に、荒れる早稲田の様子が描かれた一場面を記憶している。

 早稲田騒動(大正6年)は、大隈重信夫人の銅像建立問題(大正5年)を伏線に、第二次大隈内閣総辞職(大正5年)以降の、初代学長「高田早苗」と現(二代)学長「天野為之」による学長の座をめぐる派閥争いが、学生を巻きこみ社会問題にまで発展したものであるが、その渦中に、大民団に所属する柴田徳次郎国士舘創立者)、花田半助等が天野学長を支持して学校改革の戦列に加わっていたのである。

 ここでは詳述しないが、詳しく知りたい方は学校法人国士舘による『国士舘百年誌』(通史編)をご覧いただきたい。
 一気に話を進めて、騒動の結末を片瀬先輩の『一期は夢よ』から引用させていただく。

早稲田騒動から国士舘創設へ

 ~ 騒動の顛末は、高田早苗元学長は復学せず、天野為之学長は大学を去り、しばらく学長は置かずに総長の大隈が学校運営の「万端を処理する」ということになった。そして、天野派の伊藤重治郎、原口竹次郎、永井柳太郎、井上忻治、富島綱男の五教授が解職処分となり、学長秘書の佐藤正も早稲田を追われた。

 また革新団の学生数名にも退学処分が下って騒動の幕が引かれた。革新団に加わった尾崎士郎は、学生を「暴徒」と断じる学校当局に怒って自主退学したが、「これで早稲田精神は死んだ」と嘆いた。

 革新団に加わった青年大民団は、大講堂の占拠を解いた直後の9月21日、「早稲田大学紛擾の真相とその根本問題を世に問う」という柴田徳次郎の発意にもとづき、神田青年会館で『学校騒動問題演説会』を開催する。~ 」

とある。


 今日からすれば、壮大なドラマを見ているようではないか。
 こうした経緯を経て、早稲田騒動から国士舘創設へと至るのである。
 柴田徳次郎先生以下は、自らの手で理想の教育を行おうと決意し、その理想像を幕末の志士・吉田松陰が開いた松下村塾に置き、本格的に学校建設に取り組むことになるのである。

 大正6年11月4日、国士舘義塾の開学式が麻布笄(こうがい)町の大民団本部で挙行された。次いで、大正8年、世田谷松陰神社の畔に講堂(現在の大講堂)他、諸施設が完成し、国士舘高等部(本科)が開設された。

 当時の学園幹部は、館長・柴田徳次郎、学監・花田半助(大助)、総務会計・喜多山田悌一(いわゆる国士舘三田)という陣容であった。



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国士舘史研究年報2010「楓原」第2号(巻頭に花田半助氏の写真が掲載されている)

https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol2.pdf

国士舘史研究年報2014「楓原」第6号(P197「国士舘を支えた人々 濱地八郎」)

https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol6.pdf


中西先輩(高知県議から参議院議員、中大OB)ブログ

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週1の仕事場「むさしの森珈琲」三ツ沢店でアメリカンを飲みながら!

 神大寺から車で5分程のこの店「むさしの森珈琲」三ツ沢店は、自宅リフォーム工事に入ってから、週1回、小生の仕事場になっている。

 始めて来たのはかなり前だが、町内会の打合せのために、会長と訪れた店だ。
 その時、カウンター席にサラリーマン風やら私服の若い人達がパソコンに向かっている姿が窺え、珈琲を飲みながらちょっとした仕事をするにはもってこいの場所ではないかと思われ、それからちょくちょく利用させて貰っている。

 現在の仮住まい先でも、毎日一定時間パソコンに向かっているが、こちら(神大寺)へ戻ってきた時、短時間集中したり、次の予定までの時間をつぶすには最適の場所である。それに、たまに雰囲気を変えて仕事をするのも日常に変化があって面白い。

 今日も戸塚から、週1回の当番である早朝の「(横浜)学援隊」(通学見守り)に対応するため、横浜新道を飛ばして神大寺に戻ってきた。
 神大寺小学校前の通学路でいつものチビッコ達の元気な顔ぶれを見ながら挨拶を交わし、それと、これもいつも時間通りに、お母さんの介助により車椅子で養護学校に通う少女(高校1年生になったそうだ!)といつものグータッチを交わし、この日の見守りを終えた。

 その後、毎々、新聞販売店に頼んである袋詰めされた1週間分の新聞を自宅ポストから回収し、職人さんに挨拶しながらリフォームの進捗状況を入念に確認した後、モーニング珈琲でも飲もうかと同店にお邪魔した。

 この店は朝7時から営業していて、朝早い内はまだ閑散としているが、やがて10時11時と時間が経過するにしたがってママ友やらサラリーマンが集まり出す。グループで来店するため、圧倒的に女性が多い。いよいよ昼の時間が近くなってくると笑い声が響き、会話はピークに達してまさに花が咲いた状況となる。

 こうなってくると、そろそろ小生の退散する時間である。

 この後、郵便局へ行ったり、洗車をしたりと雑事を済ませ、戸塚に帰る予定である。

 以上は、週1回の他愛もない日常の一コマである。

愛用のLet's note
 多くのメーカーを使ってきたがこの機種に行き着いた! 少々高いが!

 

 

EOSの日_逗子から名越切通・まんだら堂回廊を経て鎌倉へ!


 戸塚の仮住まい生活が始まったのが2月下旬。
 自宅のリフォーム工事も順調に進捗している。

 先週までには、二棟の屋根瓦も全て下ろされ、ガルバリウム鋼板へと改修され、既に外装、内装の工事に入っている。あと2ヶ月ほどの辛抱である。

 これまでの間、戸塚を拠点に周辺地域を散策し、たまに足を延ばして、JR戸塚駅または大船駅に至る片道1時間強の長距離コースも開拓してきた。

 更に、鎌倉まで遠征して歴史散歩を楽しんでいるが、つい先日はEOSを携えて鎌倉七口の一つ、名越切通(なごえきりどおし)を歩いてきた。名越切通は、鎌倉と三浦半島とを結ぶ中世期(以降)における要路の一つで、「やぐら」(中世の横穴式墳墓)や火葬跡など葬送に関する遺構も多く分布しており、中世都市周縁の歴史的景観を残している。

 今般の目的は、名越の第2切通から少し登ったところに位置し、春秋の限定された期間と曜日にだけ公開される「まんだら堂やぐら群」を訪ねることにあった。往時の雰囲気を残す古道の周縁に、まるでタイムスリップしたような異空間の雰囲気を醸し出す「やぐら群」。中世の景観をご覧いただきたいと思う。

JR逗子駅
 鎌倉を歩く場合、いつもであればJR北鎌倉駅または鎌倉駅が起点となるが、今回は一つ先の逗子駅まで足を延ばした。逗子といえば、小さい頃、海水浴はいつも逗子海岸だったが、ちょっと懐かしさを感じながら駅舎を見上げた。

名越第1切通方面を示す標識
 名越切通への入り口は五箇所あるが、今回は逗子側から最短で「まんだら堂やぐら群」へ至る道を選んだ。逗子駅から京急バスの「亀が岡団地北」停留所で降り、住宅街を抜け山に入ると、直ぐに標識が見えた。ありがたいことに簡易トイレも設置されていた。

名越切通
 名越切通の途上には大小3箇所の狭い掘り割りがある。写真の1枚目と2枚は第1切通、3枚目は第2切通である。「まんだら堂やぐら群」で説明してくれたスタッフの方に伺った話しでは、最近の逗子市の発掘調査によると、この路面の下に複数の道路面が重なって発見されたそうだ。切通の道筋や構造も時代とともに移り変わってきたようである。

「まんだら堂やぐら群」を示す標識

まんだら堂やぐら群
 「やぐら」とは、鎌倉から室町時代に鎌倉やその周辺の崖地に造られた横穴式の墳墓または供養の場である。鎌倉期の墓は今日の墓の概念とは異なるようで、実際に被葬者が納骨されている場合と五輪塔が置かれ供養の場として築かれた場合があるようだ。やはり、まんだら堂のスタッフの方によると、寿福寺裏の北条政子の墓にもお骨が眠っているかどうかは疑わしい、というような話しをされていた。小生もそう思っている。

鎌倉側大町口下の路線は横須賀線
 まんだら堂やぐら群から第3切通を抜け、急峻な崖を転びそうになりながら下りてきた。眼下に横須賀線が通り、手前は逗子側、線路の先は鎌倉方面である。さて、そろそろ「鎌倉ビール」が目の前にちらついてきたところだ。

 

 

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連休前の雑感_町内会・川和高校同期会・訃報・統一地方選!

神大寺北町自治会定期総会(中央、会長〔右〕と小生〔左〕)

 連休直前、今月やっと2稿目の投稿である。

 4月の出来事を時系列で追ってみると、1日:定例会(町内会)、4日:インプラント手術、8・9日:統一地方選準備及び立ち会い(町内会関連)。
 ここまでは前稿に書いた。

 10日:会計監査(町内会)、15日:総会直前の役員会で決算報告及び予算案説明(町内会)、23日:定期総会(町内会)。24日以降、町内会ホームページ(Link参照)の更新作業。

 年度末と年度初めのスケジュールは町内会一色である。

 年度末はもとより、年間、何回金融機関(ゆうちょ銀行)に足を運んだことか。
 会計が大変な仕事であることは間違いないが、収入と支出の帳尻を合わせなければならないところに気を遣う仕事である。

 その様な折、4月15日(土)に母校川和高校の同期会が新横浜で開催された。
 小生68歳だから、卒業からちょうど50年ぶりに開催する第1回同期会であったが、前述の町内会役員会と重複し、残念ながら出席を見合わせた。
 後から、幹事が起ち上げた同期会のホームページで参集者の集合写真を閲覧したが、懐かしい顔ぶれというか、一部を除き大半の面々が誰だか分からない。人のことは言えないが、皆、歳月を感じさせる風貌となっていた。

 ホームページの記事を読むと、話が尽きることなく4時間も確保した酒宴の時間があっという間に過ぎ、その勢いで2次会へ繰り出したようである。ちょっと心残り!

 いよいよ4月23日(日)、神大寺北町自治会の総会当日。
 小生の役割は、司会進行(議長)、決算報告及び予算案説明。全議案の承認を得て、無事に総会を終えた。簡単に書いたが、思えば、この日を乗り切るために年度末から作業に傾注してきた。今は心底、ホッと一息ついているところである。

 悲しい知らせだが、次のことにも触れておこう。
 先週から今週にかけて、二件の訃報が届いた。両者とも先輩である。
 お一人は国士舘大学政経学部1期、奥深山親司先生(元国士舘大学政経学部教授)。
 小生の母親と同郷(隣町)の長野県佐久市出身。酒豪である。
 アルコールが入った時、昔話に、かつて早稲田を受験し、不合格の通知から間を置かず、受験もしていない国士舘から合格の通知が届いて今日の自分がある、という嘘のような本当の話しを聞いたことがある。

 もうお一人も政経学部1期の齋藤毅先生(元国士舘理事)。
 奥深山先生は闘病している旨を聞いていたので心の準備はあったが、齋藤先生の訃報は突然の知らせで驚きである。
 お二人ともそれなりの年齢ではあるが、小生の12期先輩だから、ようやく傘寿を越えて日本人の平均寿命に差し掛かろうとされていた頃だと思う。ところが、意識しようがしまいが、死は人の意思に関わらず必ずその身にめぐってくる。
 小生はかなり以前から終活を意識しているが、身近な人の訃報に接する時、自身の残された人生を何に費やすか、と考えざるを得ない。

 実はもう決めて実践している。

 どうしようも無いさだめのようなものを感じながら、お二人のご冥福を心からお祈りしたい。

 もう一つ…
 統一地方選がらみで政治ネタを書こうとしたが止めた。
 極力、政治がらみの話題には触れないようにしていることと(好き嫌いがハッキリ出る!)、書こうとしたことがネガティブな内容なので此処ら辺で稿を閉じることにする。
 ただ、小生、一貫して支持政党は無いが、国士舘のお膝元、世田谷区長選においても現職保坂展人氏に若干29歳の元財務官僚の内藤勇耶氏が迫ったが、今般の「維新」躍進の背景に維新の選挙戦略を担う我が先輩(国士舘)の存在があったことだけを書いておくこととする。



神大寺北町自治会ホームページ

kandaiji-kitachou.jimdofree.com