日曜日のささやかな楽しみは「笑点」と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ることだが、ドラマの方は「頼朝」の死により長い序章が終わり(第26回: 前々回)、二代目「頼家」体制(「鎌倉殿の13人」体制)がスタートした(第27回: 前回)。
そして以前にも書いたが、いよいよ幕府内の権力闘争が激化し「仁義なき戦い」へと突入していきそうな展開となってきた。
次回?の中心人物(最初の粛正の対象)となるであろう、イメージからしてぴったりの配役である中村獅童演ずる梶原景時について少し触れるが、この御仁、小生現役時、国士舘大学21世紀アジア学部で関わった梶原景昭先生のご先祖様なのである(系譜はよくわからない)。そんなことからドラマで梶原景時を見ていると、楽しくもあり辛くもあった「21アジア」の時代(6年間)をつい思い出してしまう。同時代のことについては何時か書くかもしれない。以上は余談。
頼朝の死については歴史上、落馬によるものとされているが、鎌倉幕府の公式の歴史書である『吾妻鏡』にその詳細な記録がない(欠落している)。何らかの理由があったはずであるが、当時の鎌倉に公式記録として残せないようなどのような事情があったのか、興味をそそられるところだ。
諸説ある中で、背景にある源氏(頼朝)と関東武士団との確執(いわゆる「暗殺説」)に興味を持ち、一時期、関連本を読みあさったが、妥当な解釈としては、三谷さんが脚色しているように「飲水(糖尿)の病」なのか、そこから来る脳卒中 or 心筋梗塞なのか、おおよそそのような急な病だったのではないかと素人判断している。
そんなことを考えながらドラマの展開に触発され、昨日、久しぶりに鎌倉雪の下の頼朝公の墓所を訪ねてみようと、横浜新道、横横(横浜横須賀道路)を飛ばし、朝比奈インターから鎌倉へ向かった。
山ノ内地区(北鎌倉方面)へ行くには手前の港南台インターで降りるが、この日の目的地である雪の下地区の頼朝公を祀る白幡神社、法華堂跡(墳墓堂)へ向かうにはこちらのインターから金沢街道(六浦道)を行くと時短になる。
鎌倉は京都と並び魅力に溢れる土地で、どこへ行っても雰囲気がある。ここの空気を吸いながら史跡を巡るとそれだけで歴史(中世)を感ずることが出来るような気がするのだ。この日は平日で、ましてや墳墓を巡るなどのマニアックな人は少ない中で、行き交う方々は女性ばかり。世に言う歴女? 男性が少ないのはちょっと寂しい気がした次第。
それではEOSにより、今回巡った史跡をご案内しよう。
▼大蔵幕府跡
碑は鶴岡八幡宮の東側、清泉小学校の西側角に位置し、この碑を中心に鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の御所があったとされる。後ろの清泉小学校の掲示板に史跡委員会名で(小学生によるものか)手書きの説明書きが掲示されており、この小学校が鎌倉の歴史を大切にしていることがよくわかる。
▼白旗神社
白旗は源氏の旗印。白旗神社は明治期の神仏分離の政策により法華堂と分けて創建されたものである。御祭神は源頼朝公。左写真の奥、急階段を登ると頼朝公の法華堂(墳墓堂)跡・墓所に至る。
▼頼朝公「法華堂」跡/頼朝公墓所
鎌倉時代の墓地や墓石、埋葬に関する考え方は今日の日本の習慣とは少し異なっていたようだ。当地にあったと推定される法華堂(墳墓堂)が当時の頼朝公の墓とされていたようで、右手墓所(供養塔)は、江戸期(安永8(1779)年)に薩摩藩主島津重豪(しげひで)により建立されたものである。
▼北条義時「法華堂」跡
頼朝公の墓の東側に鎌倉幕府二代執権北条義時の法華堂跡がある。平成17年に行われた発掘調査により、一辺が8.4mの方三間の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記事が実証された。
▼三浦一族が供養されているやぐら/法華堂奥の高台にある大江広元墓所
北条義時「法華堂」跡地の奥に、ずっと後年の宝治元(1247)年、宝治合戦(北条氏・安達氏 vs 三浦氏)で三浦泰村以下500人が頼朝「法華堂」にこもり自決した三浦一族の墓所(やぐら)がある。これにより相模の名族三浦氏は滅亡した。更に、義時「法華堂」跡地奥の高台に「鎌倉殿の13人」の一人、大江広元他の墓がある。