隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

EOSの日_恒例の「川崎大師」参拝!

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 自宅書棚の一角に"だるま"が鎮座している。

 何時からあるかうろ覚えであるが、川崎大師で買い求めたものであることは記憶している。たまに本棚のあちこちに移動するが、(おそらく)40年以上はここにあって小生を見続けてきた。

 通称川崎大師

 正式の名称は金剛山金乗院平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ

 厄除けのお大師さま(本尊: 弘法大師)として親しまれており、小さかった頃、我が家の初詣は氏神様(日枝神社)と川崎大師であり、今でも年に一度(1月)は足を運ぶ場所である。

 実は15日にも、お大師さまを訪ねたのだが、いつも利用する駐車場が満杯で、近隣はおろか少し離れた場所でもまるで止めるところが無かった。

 そこで本日(114日)あらためてお参りに訪れたものである。一年のはじめにここに来ないとどうも一年が始まった気がしない。

 小生にとって、川崎大師はそのような場所なのである。

 今日はEOSを携えてきたので、言葉のOutput(アウトプット)は此処までにして、近年、趣味開拓中写真により参拝の様子をお伝えしたい。

大山門
 「今年もやって来ましたよ!」
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大本殿
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献香所
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八画五重塔
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参道の売店
 京急川崎大師駅から続く参道にはだるまを売る多くの店舗がある。
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大正6年創業 山門前「住吉」
 ここのくず餅を買い求めるのがお大師さま訪問の楽しみなのである!
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住吉のくず餅
 川崎大師では久寿餅という!
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中世の旅!_大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まった!

鶴岡八幡宮(鎌倉武士の守護神)
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 令和4年1月6日付け産経新聞の記事、本郷和人先生(東大史料編纂所教授)の「日本史ナナメ読み」が興味をひいた。

 鎌倉幕府御家人である梶原景時について書かれているが、前段で「~今年は何を語ろうかな。なんといっても人気なのは、やはり戦国時代幕末維新だよな~」「~やはり戦国時代に比べると、源平合戦はマイナー~」などと述べておられる。

 戦国史及び幕末維新史は日本人の最も好きな歴史の領域である。小生も同時代の書を好んで読んでいるが、併行して、かなり以前から中世史(鎌倉・室町期)にも大いなる興味を感じていた。切っ掛けはやはり本(歴史小説)であるが、永井路子氏他の作品である。

 引退後、中世がどのような時代であったか肌で感じようと、1年ぐらいの間、頻繁に鎌倉に通い、寺社墳墓古道切り通し、そして鎌倉を囲む山中を歩き回った。鎌倉はそんなに広くない地域で、1年もかければ主要な場所には、ほぼ行き尽くしてしまうのだが、歴史というものはその土地を歩かなければわからないものだと思っている。(司馬遼太郎氏の受け売り)

 少し脱線する。

 若い人は知らないかもしれないが、ある程度の年齢の方は「仁義なき戦い」をご存じであろう。事実に基づいて戦後の広島抗争を描いた血を血で洗うヤクザ映画(東映)だが、上映された頃、小生などは夢中になって見ていたものである。

 何を言わんとしてるのか?

 比較するのもどうかとは思うが、実は鎌倉三代(頼朝死去以降)の時代は、「仁義なき戦い」も真っ青の「やられたらやりかえすやられなくてもやりかえす」(何処かで見たキャッチコピーを借用: →中公新書の雑誌『面白すぎる鎌倉室町2021/12/10』でした)、一族と一族の凄惨なる抗争の歴史なのだ。しかも一族郎党、女・子供をもその対象として…。

 メジャーな観光地は別として、差し障りがあるので場所は特定しないが、今でも死者の怨霊が漂っているようで、一人で行くには怖くなるような処が鎌倉にはある(個人の感想)。

 或いは、中世がどのような世界であったかを感ずることができるような深遠な雰囲気をもった場所もある。

 話を戻して…。

 本郷先生の連載は1年間続くようである。

 三谷幸喜氏の「鎌倉殿の13人」も昨日、放送が開始された。
 第1回放送を見て、三谷氏の作品は賛否分かれるところだが、小生はどちらかというとポジティブに見るようにしているので、面白く演出されていると感じた。

 最近、一部番組を除いて、地上波を見なくなったが、せっかくNHK料金を払っているのだから今年も大河ドラマぐらいは見てみようと思っているところである。(因みに、昨年の「青天を衝け」渋沢栄一伝はなかなかおもしろかった!)

 今後ストーリーがどのように展開されていくか1年間が楽しみである。

*法華堂跡(源頼朝北条義時の墓)/頼朝供養塔/北条政子供養塔(寿福寺裏山)
*今日とは墓の概念が異なり、法華堂が当時の墓とされていたようである。頼朝と義時の法華堂跡がある。

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追記
 令和3年12月27日付けの産経新聞の文化面に、伊藤俊一氏(名城大教授)による『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書)の紹介記事が掲載されていた。書の説明書きには「荘園を知らずして日本の中世はわからない」とある。

 記事を読むと伊藤教授は「荘園が出現してから、なくなるまでが日本の中世史」と述べておられる。なるほど、単に鎌倉・室町期を中世というのではないということか。

 今、小生のKindleには未読の書籍や完読していない書籍が10冊どころか20~30冊以上も積み上がっているが、いずれ同書も購入することになるかもしれない。

 

男厨_広島産"牡蠣"でにんにくバター醤油焼を作る! 器は国士皿!

準備(牡蠣の下処理)

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 昨年の暮れに、広島県出身・在住の大学時代の同級生より牡蠣を頂戴した。

 同君の次男が親父と同じ国士舘大学を志し、政経学部に入学した際、多少のお世話をしたものであり、もうとっくに卒業しているのだが毎年送っていただいている。

 因みに同君は自動車部、小生は言道部。いずれも創部は古く、両部は代々クラブ同士の交流があるのだが、このことは今日はさて置く。

 同君にはただただ恐縮!

 そして感謝!

 小生牡蠣は大好物で、鍋もよし、牡蠣フライもよいが、今回はにんにくバター醤油で焼いて酒の肴にしてみた。

 レシピは次のとおり。

1.準備

 牡蠣の下処理

 まず牡蠣(今回は15つぶ)に片栗粉を適量ふり(も少量加えた)、やさしく揉み洗いし、牡蠣の汚れをとる。

 これを水でよく洗い流し、キッチンペーパーの上に並べる。

 更にその上からキッチンペーパーでやさしく押さえて水気を取る。(写真上・左

 次に牡蠣の両面に片栗粉をまぶす。(写真上・右

 にんにくひとかけらをみじん切りにする。

2.調理

 フライパンにオリーブオイル(大さじ1)をひく。

 にんにくのみじん切りを入れ、にんにくの香りがするまで加熱。

 ここにバター(10㌘)を投入し、とけ始めたら片栗粉をまぶした牡蠣をならべ焦げ目がつくまで両面を焼く。

 更に、追いバター(10㌘)を投入し、とけるまで軽く焼き、最後に醤油を適量(大さじ1)回し入れる。

 完成!写真下

調理

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 さあここで、料理を盛るを紹介しよう。

 特別な料理特別な器で食すと一段と味が引き立つものである。

 写真の国士皿(と呼んでいる/益子焼)はクラブの後輩から贈られたものだが、かれこれ40年以上は使っている。

 そして、料理にあわせる酒は甲州産白ワイン真澄諏訪市宮坂酒造)である。

 嗚呼、料理も酒も美味なり。

国士皿料理

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年の瀬の雑感_何かやり残したことはないか?

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 令和3年も余すところ、本日(28日)を含め4日を残すばかりである。

 今日は町内の年内最後の「燃えるゴミ」の収集日。
 昨日までに掃き集めておいた庭の落ち葉と家庭内のゴミをすべて、町内のゴミ集積場所に持ち込んだ。これで12月に入ってから少しずつ取り組んできた大掃除を取り敢えず完結させた。

 少しさかのぼって、先週木曜日(23日)には、我が町の鎮守様である日枝神社のお札を買い求め、神棚のお札と入れ替え、しめ縄も新しいものに交換した。もちろん父母及びご先祖様が御座す仏壇もきれいに埃を落とし香を焚いた。そして要所に鏡餅を配置し、歳神様を迎える準備をした。

 その翌日の金曜日(24日)は町内会のボランティアである学援隊(通学見守り)の最終日であった。いつもの顔ぶれの小学生達を学校に送り、そして保育園に行くのであろうか、これもいつも決まって同じ時間に、お母さんに促されて小生に「おはようございます」と小さな声で挨拶をしていく(挨拶の練習をさせているようである)2歳か3歳ぐらいの女の子を見送って年内の活動を終えた。

 更に翌日(25日)、月1回の散髪である。
 いつもどおり鶴川(母校)で、菜花さんにきれいに刈り込んでもらった。頭を刈ると気持ちも変わる。新年の準備は万端である。

 その足で中央高速経由で世田谷へ。
 若い頃、散々お世話になった先輩の奥様であるMママ(元銀座の蝶である)から、先週、昔の懐かしい写真を送っていただいたので、御礼と様子伺いに訪ねた。傘寿のお祝いをしたのが数年前。娘さんが近くにいればよいのだが、少し離れたところにいるのでちょっと心配。だいぶ足腰が弱くなってきたようであるがお元気な様子であり、取り敢えず安心した。

 更に、年内にやり残したことを頭の中で整理している。

 そうだ、母校資料室へ持ち込む資料があった。急遽思い出して、大学事務所へ電話してみたが通じない。しばらくして再度電話してみたが同じである。仕様が無い。これは来年対応することにした。


 最後にブログである。
 今月はまだ2本しか投稿していない。
 以前、「気の向くままマイペースで…」と書いたが、週1本ぐらいのペースが維持できればと思っている。

 年内にもう1本書けるか?

 まぁ、あまり自分を追い込まないようにしておこう。

 

義士祭に寄せて_雨の12月14日に泉岳寺に眠る赤穂浪士を訪ねて!


 本日(R3/12.14)、冷たい雨降る中、鉄道を乗り継いで泉岳寺(港区高輪)を訪ねた。

 赤穂浪士の何たるかを、はじめて耳にしたか知ることになったのは、おそらく親父が切っ掛けではなかったかと思う。最近のことはわからないが、小生がまだ小・中学生の頃(昔)、12月14日が近づくと必ず何処かの局で忠臣蔵が放映されていたものだ。親父もよくそのような番組を見ていて小生に解説してくれた。歴史が好きで、小生の歴史好きも親父の影響が大きいのかもしれないと思っている。

 いつ頃かはっきり覚えていないが、かなり以前、泉岳寺をはじめて訪ねたのも親父と一緒だった。我が家の菩提寺泉岳寺からほど近い港区白金にあったことから、墓参のついでにすこし足を伸ばして訪れたものと記憶している。まだ、四十七士の墓地が現在のようにきれいに整地される前であった。

 今日はあいにくの雨であったが、その雨の中を実に多くの参拝者が行列をつくり、浅野内匠頭はじめ四十七士の墓前に香を手向けていた。小生も線香を求め、一人一人の名前をくちずさみながら、時間をかけて墓碑をまわり手を合わせた。

 

 唐突だが、帰り際、朝読んだ産経新聞論説委員長・乾正人氏のコラム(「風を読む」)を思い出した。タイトルは「12・14と真珠湾攻撃」である。記事の内容にはふれないが、次のように締めくくっている。

 「『初一念(しょいちねん)』を忘れた日本人の行く末を、内蔵助も案じていることだろう」

 尻切れトンボで申し訳ないが、気になる方は検索してみてください。

泉岳寺中門と山門

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赤穂義士墓所

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浅野内匠頭墓所
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大石内蔵助墓所大石主税墓所

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墓所全景

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 上は四十七(八)士墓所全景である。四十八士? 泉岳寺ホームページから以下の説明文を引用させて頂く。写真右の墓碑配置図を参照していただければと思う。

 「赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。
 ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。
 泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。
 また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります(明和4年(1767年)9月建立)。したがって泉岳寺の墓碑は48墓あります」

恒例の国士舘OB有志による忘年会を開催!


 昨日(R3/12.11)、八重洲地下街の居酒屋で恒例の国士舘大学OB有志による忘年会を開催した。
 いつからこの会が始まったか?、遙か昔のことではっきりとした記憶ではないが、恐らく30年近い歴史を刻んでいるのではないだろうか。

 いつも通り我がメンバーの話題は硬派中心、時に危ない話しも…。
 今般は、昨今週刊誌やネット界隈を賑わすいわゆる「KK」問題も議論の対象になった。皆一言あるが、そこは国士舘。多少の意見の食い違いがあっても、最後はまとまるところ(最大公約数? 否!声のデカい奴)に纏まる。

 一次会でかなりボルテージが上がったが、二次会が控えている。
 いつもであれば二次会に繰り出して盛り上がるところだが、小生、明日は朝から外せない用件があり、同じ方向に帰る伊井兄と帰路に着くことにした。

 いつもどおり新幹線で新横浜へ。
 おとなしく帰る予定が、新横浜に着いて安心したこともあり、二人して行きつけの寿司屋をのぞくことになった。大将一人で寂しそうであったので、ちょっと賑やかしてにぎりを食いながら熱燗で一献。大将を交えて世間話に花を咲かせ、ひとしきり時間を過ごした。

 さて、腹もアルコールも十分満たされたところで「おあいそ」をし、それぞれ家路を目指した次第である。

東京駅八重洲地下街日本海庄や」前にてf:id:inkyoclub:20211213130115j:plain