今日も鶴川へ行ってきた。
散髪は、国士舘大学町田キャンパス(鶴川校舎)の厚生施設を利用している。近くの理髪店へ行けば良いではないかと思われるかもしれないが、馴染んだ散髪屋は中々変えられない。しかもマスター(といっても後輩の弟)も、マスターのお師匠さんにあたるNさんも短髪が上手い。毎月、車で片道約1時間かけて通っている。
さて、本稿は鶴川の寮の話し…。
以前から何処かで書いておこうと思っていた。母校についてネガティブなことは書きたくないが、もう50年近く昔のことであり、現在の国士舘は幾度もの改革を経て大きく変貌し発展している。既に小生の記憶は遠い過去の思い出になっているので、思い出話としてある程度リアルに書いてみる。
町田キャンパスは、当時、鶴川校舎といわれており、小生が大学1・2年次を過ごした場所だ。
実は小生、高校時代(神奈川県立川和高校)は理系に所属していて、進学も理系大学(商船系)を予定していたが、紆余曲折(「昭和の日に寄せて」の項で少しふれた)があり、転向して文系の国士舘大学法学部に進学した。
今でも思い切った決断をしたと思っているが、当時はそれなりに人生を真剣に考えていた。国士舘大学は自宅から通っても充分通学圏内であったが、入学するからには、とことん国士舘を極めてやろうと寮生活を選択した。
当時、国士舘の男子寮には世田谷校舎に松陰寮(松陰神社の畔にある)、鶴川校舎に望嶽寮(屋上から富士が望める)があり、法学部に入学した小生は、政経・法・文学部の教養課程が置かれていた鶴川校舎の望嶽寮に入寮した。
アルバムを整理していると、まさに「入寮当日の顔」と説明書きのある写真が出てきたので掲載する。昭和48年、19歳になる直前の小生である。
国士舘の寮は厳しいところと聞いていたが、はたして蛇が出るか鬼が出るか。
寮は、最初の1週間はお客さんであった。何事もなく1日1日が過ぎていった。後から考えれば嵐の前の静けさだったのだが…。二週目の初日、夜の点呼で洗礼を受けることになった。
廊下の電灯が消え、上級生(2年生)の怒声が響いた。
「○○○らぁ~、今日からお客さんじゃねえぞぉ~!」
「はい!」と気合いの入った我々新入生の声。
当時の望嶽寮は寮監、舎監のもと、各棟(A・B・Cがあった)各階ごとの学生自治組織になっていて、小生の所属はA棟5階であった。記憶では20名位の新入生がいて、廊下に横一列で整列していた。
いきなりである。
「全員瞑想、歯を食いしばれぇ~!」
理由はない。
(今から見れば、)悪しき伝統だ。
端から全員の顔面に鉄拳が飛んだ。
痛くはない。ショックがあるだけだ。
声の出ない者、「アリガトウゴザイマシタァ~!」と発する者…。ここから1年間、苦難の寮生活が始まることとなった。
寮の日常であるが、朝5時に点呼。
5時に点呼ということは1年生はその前に起床し、廊下に整列、準備をしている。頃合いを見て上級生を起こし、A棟2階のベランダへ移動。寮全体の合同点呼の声(ex.「五階A総員○名、事故○名、現在員○名、番号! 1・2・3・4・5・6・7…ま~ん(け~つ)!」)があちこちに響く。国旗掲揚。寮監または舎監の訓示。
その後、各棟各階に戻り清掃(朝・夕)。
廊下、扉の桟、便所、塵一つ無いよう、また便器も素手に雑巾で徹底してみがく。上級生の点検を受け、不徹底な箇所があるとやり直しとなる。
次に朝稽古。
一般の寮生は原則として、剣道部または柔道部の何れかの稽古に参加し、合同で練習する。小生は柔道を選択した。
それが終わると朝食。
A棟1階に食堂があり、100人、200人は優に座れるほどのテーブルが並んでいる。炊事は食堂部といって選抜された寮生が担当しており、ここも上級生が仕切っていて下級生がせわしなく働いている。箸は全員がマイ箸、学生服の胸ポケットに入れている。毎食、一ヶ月分の食券に上級生にハサミを入れてもらって、カウンターで食事の給仕を受けるのだが、元気よく挨拶しないとどやされる。飯は麦飯。何分入っているかわからないが、ドンブリに盛ってある飯がまっ黒に見え、はじめの頃は麦のにおいが鼻についた。が、すぐ慣れた。
食事中であっても上級生がやってくると直立して挨拶(もちろん元気よく!)。食後は食器を洗って返却するのだが、上級生と同席(目に見える範囲)すると上級生の食器は一年生が洗わなければならない。一年生は、さっさと飯をかけ込んで素早く引き上げるのが正解。この時の習慣から小生は今でも早飯である。
日中は授業に出席。寮生(1年生)は寮で寝られないので、授業中よく寝ている。
夕方5時、国旗降納。
その後、食事、清掃(朝に同じ)。
夜8時、各棟各階ごとに個別点呼。
これが問題。上級生(2年生)の進行で、在籍確認等が行われるのだが、指名されて歌(寮歌、桜花、男度胸、蒙古放浪歌…)を高歌放吟することもある。問題なく歌い終われば無事に点呼は終わるが、つっかえたり歌詞を間違えようものなら、その場で気合い(「ヤキ」と称した)が入る。
また、寮は集団社会であり、日常の生活の中で誰か一人でもルールを犯すような行動等があると連帯責任となり、前述と同様の仕置きとなる。小生の場合、殴られることよりも正座が苦痛だった。最高2時間座ったことがあるが、脂汗が出て泣きそうになる。終わった後は暫くの間立てなかった。
その後、風呂。
風呂は大風呂で、今は改装されて浅くなっているが、当時は立った状態で小生の胸ぐらいまであった。1年生は上級生の背中流しをやるので、のんびり入っている暇などはない。
以上が1日の主だった流れだが、これで1日が終わるわけではない。上級生の指示を受けて買い出しに行ったり、夜食のラーメン(当時は「札幌一番/味噌ラーメン」が流行っていた)を作ったり、按摩をしたりと忙しい。上級生が起きている内は1年生は寝られない。
これらは各部屋の部屋長の学年と性格(仏か鬼か…)等で決まるのだが、小生の場合、部屋長は4年生の仏のM先輩だったので他の者よりは大分楽をした。
また定期的に大学警備の当番が回ってくる。当時、校地の南側に門(現在の正門)があったので南門警備と呼ばれていた。複数者が交替で仮眠を取りながら、夕方から朝まで不寝番をするのである。警備員などはいない。掃除も炊事も警備も学生の仕事であった。「身を守る・母校を衛る・国護る」、国士舘の精神をあらわす標語だ。
もう一つ、月例の行事にも触れておこう。月に1回、座禅の日がある。確か駒澤大学の禅僧が来て、寮生全員(1年生が中心)が柔道場で座禅を組むのである。良い経験になった。警策(きょうさく)もありがたく頂戴した。
このような生活が1年続き、いよいよ2年生になる直前、最後の試練が待っている。ここでも洗礼を受ける。一発ではすまない。
よく辛抱し苦難を乗り越えてきた。
同じ釜の飯を食った仲間とは絆を深めた。
ただし、前述のような生活故、とりわけ精神的なプレッシャーを受けるので、耐えられない者は退寮していった。当初20名位いた同級生も1年を終える頃には3分の1ぐらいに減っていた。
当時の寮は、一年生にとっては、今日のような厚生寮ではなく、良い意味でも悪い意味でも修行の場であったように思う。異論はあると思うが、人は人生の若い頃に、理不尽な環境における経験を経ると人間的な成長を得るのではないか、と感じている。その意味で、人間関係の機微を深く深く学んだ1年間であった。
国士舘では一級上の先輩を直系の先輩と呼ぶ。
倶楽部でもそうだが寮においても、先輩と呼ぶこと、先輩と呼ばれることは最高の敬称である、と思っている。我々の世代が卒業してから、もうだいぶ歳月が流れた。恐らく当時の先輩方と会うことはもうないかもしれない。しかし、もし、何かの折に出会うようなことがあったならば、先輩!と呼ぶことになるであろう。当時の人間関係が今日でも生きているのである。
■R3.5.25追記
昭和48年、奇しくも大学の諸改革を期して「近代化委員会」(委員長:法学部中村宗雄教授)が設置され、寮生活に関する事項についても一部改革された。近代化委員会については関係資料の整理がつけば別項に書きたいと思う。