▼知る人ぞ知る「茂登田」(もとだ)
茂登田を紹介するサイトは数多いが、比較的写真の多いブログを以下に貼っておく。前庭では多種の野菜と米までもが栽培され(写真参照)、食卓に供されている。もちろん料理を作るのはご亭主ではなく奥方である。
▼「茂登田」の前庭/ご亭主(中央)と後輩達,撮影者小生(H28/9.9)
戦国史及び幕末維新史は日本人の最も好きな歴史の領域である。小生も歴史好きの一ファンに過ぎないが、関連本を読みあさりゆかりの地を訪ね歩いている。
つい先日、岡山県里庄町で古民家文庫(カフェ)「茂登田」を営んでいる元同僚の才野氏から、高知に戻り鰹を食べに行った際に立ち寄った「龍馬の生まれたまち記念館」で入手したという資料が送付されてきた。
「東京龍馬会」が発行する龍馬タイムズの138号で、著名な歴史作家等、識者の執筆による原稿が多数掲載されているが、その中で木村武仁氏(京都「霊山歴史館」学芸課長)による「京都見廻組 桂早之助について」という記事が目にとまった。桂早之助は、近江屋事件(坂本龍馬暗殺)に関わったとされる京都見廻組隊士の一人である。
今日、坂本龍馬殺害の実行者は京都見廻組であるとする説が最も有力である。
新撰組犯行説、紀州藩士報復説等々、諸説ある中で京都見廻組説における見廻組隊士(今井信郎、渡辺篤)による自供、証言以外に確実な資料の存在が確認されていないことによる。
箱館戦争に降伏し、明治2年、刑部省の取り調べを受けていた今井信郎の自供によると、龍馬殺害の実行者は*佐々木只三郎(与頭)以下、今井信郎、*渡辺吉太郎、*高橋安次郎、*桂準(早)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7名とされている(*は 実行者、他は見張り役。実行者全員が鳥羽伏見の戦いで戦死している。今井が生存者をかばう意図でそのように供述したのではないかと言われている)。
その後、明治33年に先の自供を翻し、実行者は自分(今井)、渡辺吉太郎、桂準(早)之助、もう一人(存命者)の4名であるとし、明治42年には、「暗殺ではなく幕府の命令による職務であった」「犯人は新選組ではない」と述べている。
更に、明治44年、渡辺篤により記録された、子孫に伝えることを目的とした「渡辺家由緒暦(ママ)代系図履暦(ママ)書」(原本は明治13年に執筆されている)によると、「見廻り組頭取佐々木只三郎の命により自分始め組の者、今井信郎外三名申合せ、黄昏より龍馬の宿へ踏込」と、自身が実行者であることを告白しているのである。
(参考文献:リンク参照)
要点のみを書いた。
関係者の名前が複数あげられている。
ただし、現在明らかになっている資料のみでは龍馬殺害の直接の実行者を特定することはできないと思われるが、前記の霊山歴史館には坂本龍馬を切ったとされる桂早之助の脇差しが展示されているようである。
歴史を解明するには更に有力な証拠物が発見されるのを待つほかないと思うが、小生など素人は、史実が解明されなくとも永遠の謎のままでも良いのではないかと思っているところもある。
謎のままの方が歴史にロマンを感ずることができるからだが(逆説だが、歴史にロマンはないと思うこともある)、ただ、龍馬を切ったとされる刀は是非一度見てみたいと思う。
己の本質は、単なる歴史好きの野次馬なのかもしれない。
▼2010.11国立国会図書館月報(「坂本龍馬 近江屋事件の現在」 菊地明氏)
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3050787_po_geppo1011.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
▼霊山歴史館