隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

引退した年の今日(H30/8.30)_熱海伊豆山「興亜観音」に眠る七士を訪ねて

H30/8.30_伊豆山「興亜観音」像

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七士之碑(右側)
 昭和34年建立/7人の遺骨灰は地中深く埋葬されたとのこと

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 平成27年4月、小生はそれまでの配属部署である21世紀アジア学部から、古巣の法学部へ異動となった。一般的に前任部署へ戻ることは無いと思っていたが、何らかの人事的力学が働いたようだ。以来、諸事情により早期退職を決意するまでの3年間、法学部業務と併せて学部所管の比較法制研究所が主管する「極東国際軍事裁判研究プロジェクト」の事業に、相棒(課員)の伊井氏と共に携わることになった。

 同プロジェクトは、平成23年、小生の前任者の才野法学部事務長が、平成29年に予定されていた国士舘100周年に相応しい特色ある事業として企画立案し、学部及び大学における所要の手続きを経てに立ち上げたものであり、それを小生が中途から引き継いだのである。

 平成23年度から同29年度にかけてのロングラン・プロジェクトであったが、集大成として、最終年度第2回「東京裁判」シンポジウムリンク参照)を開催し、講演録櫻井よしこ他5名国士舘大学極東国際軍事裁判プロジェクト『新・東京裁判論』産経新聞出版)(リンク参照)の出版を以て、同プロジェクトは幕を下ろすこととなった。

 さて、標題の熱海伊豆山「興亜観音」といえば、支那事変(昭和12年)における上海派遣軍司令官であった松井石根(いわね)陸軍大将が、退役後の昭和15年、日支両軍の戦没将兵を「怨親(おんしん)平等」(怨親: 自分を害する者と、自分に味方してくれる者の意)に祀るため私財を投じて建立したものであり、極東国際軍事裁判において、いわゆるA級戦犯として処刑された松井石根東條英機広田弘毅七人遺骨が埋葬されていることで知られている。

 小生がこのことに関心を持ったのは、書籍に記録された日付によると昭和49年の大学2年次、ただ一人の文官として処刑された広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』(城山三郎)を読んだときが最初だと思う。つい先頃(6月頃)、米公文書により、横浜(現久保山斎場)で火葬にされ、太平洋(「横浜の東の太平洋上空、約30マイル(48㌔)地点」)に散骨されたことが確認された七人の遺骨が、何故、興亜観音に埋葬されているのか、同書の冒頭(「はじめに」)に詳しくふれられている。

 ともあれ小生は、同プロジェクト全事業無事終え引退により生活も変わり時間もできたことから、一つの区切りとして伊豆山「興亜観音」を訪ねることとしたのである(写真上・下)。
 遡って、小生が法学部に異動する以前の平成239月、同プロジェクトでは熱海研修として興亜観音を参拝しているので集合写真を掲載しておく(写真下)。余談だが、この頃の小生はといえば、21世紀アジア学部で最大級のストレスをかかえ悪戦苦闘していた時期で、このことはいずれ別稿に書く予定である。

 伊豆山「興亜観音」は、ナビによると熱海市国道135号線から脇道に入った山の上にあるはずだが、その道は車一台がどうにか通れるくらいの狭隘で急勾配の登り坂であった。意を決して登っていくが、進めば進むほど無事に辿り着けるか不安になり、途中で立ち往生してもやっかいなので、中腹の切り返しができそうなスペースに車を乗り捨てて徒歩で山を登ることにした。
 まさに神仏のおわす「お山」といった雰囲気で、しばらく登っていくと木立の中に山門が見えてきた。更に登ると折れ曲がった山道の途中に興亜観音像七士之碑写真上)が建立されており、それぞれに手を合わせ祈りを込めた。
 かつて過激派(後の「東アジア反日武装戦線」)による爆弾テロ事件(S46.12.12)の標的となった七士之碑傷跡(修復跡)が痛ましかったが、今日なお此処に慰霊報恩の念を集めていることに感慨を深くした。

 更に進むと本堂に行き着いた。折良く住職の伊丹妙浄様(尼さん)がおいでになり、参詣の趣旨を伝えたところ、お経をあげて頂き両親の遺影と共にお参りをさせて頂いた(写真下左)。本堂隣の休憩所で妙浄様からお茶のおもてなしを受けた。妙浄様は非常に気さくな方で、暫く時間を忘れ、興亜観音の由来や国士舘のことなどについても歓談させて頂いた。

 下界山の上とでは時間の流れが異なる。
 ゆっくりとした時間を過ごし、名残惜しかったが参詣帳に記帳をさせて頂き、おいとまを乞うた。本堂の前庭から眼下に広がる熱海の海を目に焼きつけ山を下った。 

H30/8.30_伊豆山「興亜観音」本堂にて

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H23/9.10_極東国際軍事裁判研究プロジェクトによる熱海研修(「興亜観音」本堂前にて)
中央僧衣は渡辺則芳比研所長(当時)、右隣の作務衣は住職伊丹妙浄殿、前列右から2人目は広田弘毅のお孫さん弘太郎氏

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www.kokushikan.ac.jp

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追記(Wikipedia「興亜観音 -沿革-」より)

 愛知県幡豆群(現西尾市三ヶ根山にある「殉国七士墓」は、昭和35年興亜観音七士遺骨から香盒一ケ分を分骨して埋葬したものである。

 現在(の興亜観音)はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯の刑死者901柱、収容中に病死・自決・事故死・死因不明で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせた1,068柱の供養碑(大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑)、大東亜戦争戦没戦士菩提(昭和19年)も建立されて同戦争の全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。