▼鈴木善一先生著書『これからの日本 風雪五十年』
(見返しに武者小路実篤氏の賛詞と棟方志功氏の賛画が掲載されている)
▼目次
ただ一度だけ、お目にかかった先輩のことを書き記しておこうと思う。
鈴木善一(ぜんいち)先生。
国士舘高等部(T8.11.開設)出身の大先輩である。
デジタル版日本人名大辞典には次のように記されている。
「1903- 昭和時代の国家主義者。明治36年7月9日生まれ。大正15年建国会にはいる。昭和6年大日本生産党の結成に参加、青年組織の大日本生産党の書記長となる。8年神兵隊事件に連座。公職追放解除後の29年、大日本生産党の再建にくわわり中央執行委員長。のち国竜倶楽部(クラブ)常任世話人、淑徳学園理事をつとめる。茨城県出身。国士舘高等部卒」
上記の通りであると思うが、非常に表面的な説明である。
鈴木先生は、著書(鈴木善一『これからの日本 風雪五十年』講談社出版 S48.5.15)の目次(写真)の項目だけを見ても推察できるように、昭和史の局面において重要な役割を果たしてこられたが、本稿ではそれらについてはふれず、小生がただ一度お目にかかった時の印象のみを書き記しておきたいと思う。
今手許に、先生から戴いた著書(前記)がある。見返しに、先生の筆跡で次のように記して頂いたのをあらためて確認した。
「 悲願
一億の民を移して
南米に
理想の園を
築かざらめや
一九八五年 八月四日 鈴木善一
○○ ○○(小生) 學兄 」
日付から当時の手帳を確認してみると、昭和60(1985)年8月4日(土)の欄に、確かに「鈴木先生訪問」の記録があった。
記憶を辿ると、この日小生は、元所属部署(学生部)の上司及び同僚他と共に、駒沢のご自宅を訪問したのである。
ご自宅は駒沢公園に近い閑静な住宅街であった。家を訪ねると、我々は庭に案内された。そこは適切な表現ではないかもしれないが、今風に言うと「鈴木ワールド」といった独特の空間であり、周辺に木彫りの仏像が無造作に置かれており、庭先に腰を下ろし黙々と仏像を彫っておられる鈴木先生と対面した。
当時の先生の年齢は生年からすると80代の前半、既に好々爺といった佇まいで、話し方も穏やかで俗世とは無縁の世界に生きているという風であった。駒沢の一画にご自身の世界を作り、そこを「刻志館」と名付け、彫刻に没頭する日々を送っておられたのである。
その世界は小生の言葉などではとうてい語れるものではなく、著書の冒頭の一節「仏像を刻む心 -仏像は祈りである- 」から抜粋し、次に引用させて頂く。
「仏像を角材から丸太から、駒沢の『刻志館』で刻んでいると、過去の事柄、亡くなった人々、交友の誰れ彼れの顔と言葉とが次から次へと浮かんで来る。無心か? 否な有心である。太古の心と世界が生き生きとよみがえって来る。」
「天平、白鳳、鎌倉時代の仏像の神々しい相、姿態、人間の喜怒哀楽、生老病死苦を解脱した仏面に接すると、人生無常、天変地異を経験して、猶お平常心を喪わない人間の微笑、法悦がほのぼのと伝わって来る。」
「彫刻は単なる造型ではない。魂の表現であり、血の通った人間、動物の精一杯の呼びかけである。静かなること水の如し、疾きこと風の如し、怒り心頭に発する、動かざること山の如しというが、水も山もその内面においてはたえず流れ動いているのだ。それが仏像であり、木彫である。」
「仏像は過去を語り、現在を哀歓し、未来を予言し、希求する。刻者はその激動の流れ、静動の心を以て仏像を刻むのである。」
「仏像は生きている、語っている、怒っている、拈華微笑する。そしてたえず祈っている。」
「一路白道を行く、道と和と光の為に祈っている。人間の哀歓と共に祈ってやまざるもの、それが仏像の心であり、相である。」
奥深く、まだ若かった小生などの思考では理解できない世界であり、「刻志館」の庭先に立っていると、何かしら漂っている深遠な雰囲気に包み込まれていくような気がしていた。
ただこの歳になり、既に両親を送り、菩提寺(浄土宗)の、或いは仏壇の阿弥陀如来に朝夕手を合わせていると、宗教観が深いとは言えない小生のような人間にも、「祈り」というものが心の中から自然に湧き出てくるものであることに気がついている。
冒頭に書いたとおり、ここでは先生の昭和史における思想と行動にはふれないが、現在(お目にかかったとき)の境地に到達するには恐らく、前半生の生き様が大きく関わっているように思う。
今、あらためて著書を読み返している。
激動の時代を相当の熱量をもって生きたが故に、晩年において「静」の世界に身を置き、緩やかな時間の流れに身をゆだねておられたのではないかと、二世代近く年の離れた若造はかってに想像しているのである。
■追記
別稿(「国士舘大学『言道部』で鍛えられた日々」)の日本弁論連盟会長東不二彦先生の関連で鈴木善一先生についてふれた。実は、両者がどのようなご関係であったか小生にはわからないのだが、お二人とも昭和の国家改造運動に身を投じ、共に神兵隊事件(S8.7.11.発覚_昭和維新を期し未遂に終わったクーデター計画)に連座されているのである。
事件の概要についてはリンクを参照頂きたいが、少しだけ、鈴木先生の著書(「昭和史の歪曲を許さず」の項参照)から引用させて頂き、先生が神兵隊事件をどのように捉えていたか見てみたい。
鈴木先生曰く、「神兵隊は君民一体の実を挙げる政治、弱肉強食の資本主義制度の根本的改革、華族制度その他、階級制度の撤廃、都道府県の適正統合、国民教育制度の改善、福祉制度の完全実施に基づく道義政治の建設を目標とし、そのためには腐敗せる官僚主義、政党政治、財団専制を一挙に打破せんとする維新行であった。」
結果的に、同事件は未遂に終わり、昭和8年7月11日に関係者約100名は一斉に検挙され、昭和10年秋に仮釈放となるまで獄中にある。そして翌昭和11年、二・二六事件が起こり、お二人はその結末を見ることになるのである。