隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

EOSの日_親父共と現役の共演/古き良き国士舘時代を懐古する!

 令和4年11月(2・)3日(木)

 コロナ禍ではあるが、国士舘大学楓門祭が3年ぶりにリアルに開催された。
 11月3日は昭和前期までは「明治節」(明治天皇生誕日)として、明治天皇の遺徳を偲び明治時代を追慕する目的で制定された祝日であった。小生が入学(S48)する以前の国士舘では、創立者柴田徳次郎先生の「明治(時代)に学び明治にすぐる」(S47「明治祭」テーマ)とする教育の方針から、学園祭の呼称を「明治祭」としていたが、今日、校章の「楓」を頭文字に「楓門祭」として継承されている。

 この意義ある日に、かつて国士舘で学んだOB有志が多数参集し「歌唱祭」他が開催された。以下にOB及び学生の勇姿をご覧あれ。

OB有志による歌唱祭
国士舘小唄/剣道部部歌/国士舘学徒吟(寮歌)/桜花/男度胸(流砂の護り)/風雲児(狼の歌)/蒙古放浪歌/青年日本の歌


応援団リーダー公開
 第一応援歌/第二応援歌/国士舘舘歌


大講堂前で集合写真

 

 

赤坂の夜は更けゆく!

 令和4年10月31日(月)
 この日(昨日)、溜池山王駅から程近い「アレグリア赤坂」で、小生が、もう50年も前からのつき合いになる藤川晋之助氏の「第二の人生を励ます会」が開催された。
 国士舘大学に同期で入学したが、年は一級上。通常同期で入学すると年が幾つ離れていても、いわゆる「同期の付き合い」になるが、小生からするとこの方は人生の経験値において兄貴分である。だからいつも敬意を表して「先輩」と呼んでいる。

 藤川晋之助の名前は選挙の必勝請負人として業界ではつとに有名であるが、ご存じない方のために肩書きを紹介すると「東京維新の会」(日本維新の会)の事務局長である。経歴は、田中軍団全盛の頃、田中派代議士の秘書であったり、大阪市議会議員を務めたりと常に政治の世界に生きてきた。

 この言い方もおかしなものだが、この日参集された方々の中で、巷で「選挙の神様」と呼ばれている人を小生は3人知っている。一人は藤川氏、一人は藤川氏の盟友の自民党前事務局長の久米晃氏(やはり小生が所属した団体の50年来の先輩である)、もう一人は小生は良く存じているが、先方はご存じないと思われる選挙プランナー三浦博史氏(慶大OB)。三者とも、メディアに登場したりして、その名前を耳にしたり目にすることができる。

 以下に写真を紹介するが、やはり「維新」の方々が多い。
 まずはこの日揃って登場されたお二人。
 右は藤川氏、仮面の女性は石井苗子(みつこ)参議院議員比例区)である。その下の写真、マイクをお持ちの中央の方は「維新」代表の馬場伸幸衆議院議員(大阪17区)である。


 この日の参集者はザッと見て軽く100人は超えている。200人ぐらいか!? このような大パーティーに参加するのは久しぶりである。
 その中で何人かの国士舘関係者に出会った。

 まずは鳥越良孝氏(政経OB、応援団、写真中)。
 「維新」の鈴木宗雄参議院議員比例区、拓大OB)と一緒であったが、本日、偶然か鈴木代議士を講師とする「とりこし良孝」政経セミナーの案内(郵便)を受け取った。次の選挙を視野に入れているのだろうか。恐らくそうであろう。

 次に、珍しい人物に会った。
 本当に久しぶりだが、倉田勝彦氏(法OB、写真右)である。
 左側のお相手の方が前述の久米氏(先輩)である。因みに久米氏の更に左隣が三浦氏(横顔の方)である。人の関係はわからないもので何処かで繋がっているようである。

 他に何人か耳にしたが、直接お会いしていないのでお名前の紹介は控えさせていただく。


 このような異業者交流会のようなパーティーは、現役時代にはよく参加したが、現在、横浜の田舎に隠棲している小生には人酔いしそうである。それに、どこもかしこもエネルギッシュな人達ばかりで、ゆっくりと飲んだり食事をしたりするような雰囲気ではない。
 失礼のないように藤川先輩及び関係者に挨拶をし、早々に会場をあとにしようとしたが、久米先輩のお誘いでチョット食事に行くことになり、赤坂溜池山王の過門香(中華)へ入った。

 久米先輩ご推薦の店であるが、熱い紹興酒四川料理に舌鼓を打ち、満腹になったところで最終の新幹線に間に合うように家路についた。

 藤川先輩は取り敢えず現職は離れるが、まだまだ政治の世界から引退できないようである。と言うか、この人を必要としている政治家他が大勢いるのだ。ひょっとすると生涯現役か…。

 大病もされたことだしどうか健康に留意していただいて、その上で今後の活躍に期待したいと思う。

 

 

 

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宇田川兄の葬儀で思い起こされる新生応援団の草創期のこと!



 資料が無いままに書いている。
 記憶違いがあればご容赦願いたい。

 国士舘大学応援団が創部されたのは、恐らく文系の学部では最も古い政経学部が開設(S36年)された以降であろうと思う。とすると、小生が所属した言道部とほぼ同じ時期になるだろうか。

 その応援団が、ある事件により解散の処分を受けたのは、確か昭和55(1980)年。小生が大学職員となって3年目のことである。

 当時、学生部に所属していた小生は、処分が下された「課外活動指導委員会」(各学部学生主任〔教員〕と学生副主任学部事務長〕で構成される全学協議体)に事務スタッフとして関わっており、審議の場に立ち会っていた。

 その後(かなり後年)、あのときの結論は「解散」だったか? 「永久解散」だったか? などという議論が度々話題(論争!?)になることがあったが、前述の委員会に立ち会っていた小生は、紛れもなく前者であると認識している。このことは後でも触れる。

 この決議により応援団は、大学の「公認」を取り消されることになったが、濃密な人間関係で構成される学生集団が雲散霧消するわけもなく、その後応援団は、指導者がいないままに未公認の状態による日陰の活動が長く、長く続くことになる。一方、応援団OB会からは復活の働きかけが、継続的に大学の上層部に為されていたと聞いている。

 時代がずっと下って、
 小生が鶴川校舎(当時の呼称)の法学部事務室に勤務していた平成6(1994)年頃だったと思う。

 当時、世田谷校舎へ通学する綿引聖(法)、今井祐亘政経)、黒田州司(法)の3名(いずれも4年生)が小生のところへ訪ねてきて、応援団再建したいという相談を持ち込んできたのである。彼ら3名はこれまで応援団の活動に関わったことのない学生達であった。

 応援団のOBでもない小生のところへ何故来たか。

 疑問に思いながらもそのことを当方から尋ねたことはなかったと記憶している。何かを為したいという学生の心情は、それが純粋なものであれば最大限尊重されるべきもので、職員であり、本学OBである自分の立ち位置は、それが実現できるように助言、助力するべき立場であると考えていた、と思う。

 かなり話し込んだ。

 ただその時、小生は、応援団が解散となって既に10年以上の月日が流れており、OB会の意向もある、硬派系のクラブに対する学内情勢等から考えてもかなり厳しい道である旨を話したと思う。

 が、その後彼ら3名は、2度、3度と小生のところに通って来るようになるのである。

 三国志好きの小生の頭によぎったのは、劉備玄徳が関羽張飛を伴い、三顧の礼を踏んで諸葛孔明を軍師に迎え入れた故事である。そして「桃園の誓い」。

 人が、人生の中で大きな決断をしなければならない瞬間は何度かあるものだが、この時の自分はその様な状況にあったと思う。

 ここで火中の栗を拾うか否か。

 結論は決まっている。

 拾うことになるのである。

 その時から、公認申請(平成7年度申請)の準備が始まった。
 課外活動団体はまず「愛好会」に登録申請して大学の認可を受け、複数年の活動実績を積んで、申請により「同好会」「部」へと昇格していく。

 当時の規定では、愛好会に登録するには指導者(学内の教職員)が1名いれば良いことになっていたので、小生が部長となり、学生代表者、部員10名以上、規程、活動計画等の要件を整えた。団体名は、色々考えた末、クラブの活動内容から「スポーツ応援会」とした。

 全てを書面に整え大学の窓口に提出し、課外活動指導委員会の審査を受けた。

 果たして結果は…

 なんと「否」であった。

 後で理由を確認したところ、当該団体(スポーツ応援会)の登録には指導者2名を要する、ということであった。あり得ないことだが事後法が適用されたのである。しかも、再申請も認められず、平成7年度からの公認団体としての活動は、事実上、不可能となったのである。更に、この時も「解散」か「永久解散」かの議論があったやに聞く(伝聞だが)。

 当然、小生は憤慨した。
 公認申請に全精力を注いできた綿引、今井、黒田の3名も、このような筋の通らない決定を下されて泣くに泣けない…。否、泣いていた。一途な気持ちが大学に通じなかったのだ。3人は男泣きに泣いていたのである。

 以上が新生応援団の前身となる「スポーツ応援会」の公認申請時の顛末である。

 

 翌年(平成7年)3月、今井と黒田は卒業していった。
 綿引は、翌年度の公認申請に再チャレンジするため、自らの意思で大学に残ることになった。

 (端折るが…)

 そして、遂に、平成8年度公認申請において「スポーツ応援会」は愛好会として公認を得ることとなった。今井、黒田の両名から後事を託された綿引が、2名の指導者及びその他の要件を整え公認申請を行い承認されたのである。
 3人の志は結実し、今日の応援団に発展する基礎を作ったのである。

 

 宇田川久雄兄の葬儀で久しぶりに今井祐亘と再会した。
 因みに、今井祐亘は今井三兄弟のまん中で、三兄弟全員が国士舘大学応援団に籍を置いた。
 葬儀は厳粛で悲しみに溢れていたが、宇田川兄の人柄からか、控え室はさながら同窓会の様相であった。小生も何十年ぶりに多くの後輩達に再会することができたが、それは宇田川兄が引き合わせてくれたものと思っている。

 あらためて宇田川久雄兄のご冥福を祈りたい。合掌

 

 

国士舘OB列伝_応援団長宇田川久雄君! 安らかに眠れ!

 まずは上の写真をご覧いただこう。
 以前、本ブログの別稿(リンク参照)に掲載した写真である。
 昭和61(1986)年3月、国士舘皇居勤労奉仕はじめ各奉仕団が、皇居宮殿北車寄(きたくるまよせ)にて、天皇陛下(「昭和天皇」)の御私謁を賜った場面である。手前が国士舘の面々。そして、後列左端のひときわ大柄な男子が当時の国士舘大学応援団団長宇田川久雄君である。

 その彼が令和4年10月16日明け方、闘病の末、身罷った。
 膵臓癌だと聞いた。
 61歳の人生であった。

 残念なことだが、我々の世代は葬儀が同窓会となる。
 彼の義理人情に篤く、男気に溢れる人柄が表すとおり、先輩、同期、後輩達が君に別れを告げるために全国から集まった。柩に納められた君は闘病のせいか大分痩せてはいたが、生前と変わらぬ精悍な顔つきで静かに眠っているようであった。

 応援団はしきたりで団旗(応援団旗)を掲げ、故人を送ることとしている。
 剣先を黒色の布袋で蔽い、半旗状にポールに結ばれた団旗が、平成の初期から応援団の再建(公認申請「愛好会」から「部」への昇格)を担ったOB等により掲げられた。平成年間、彼らは、当時学外OBであった宇田川君の熱血の薫陶を受けていた。

 頃合いを見計らって、掲げられたポールを地面と水平の位置までゆっくりと降ろすのである。しかる後、再び直立させる。

 応援団の栄誉礼である。

 宇田川久雄君、団旗のもとに君を彼岸へ送る。

 君のご冥福を心から祈っている。

 安らかに眠ってくれ。

 

 (国士舘大学応援団元部長・監督)

 

▼宇田川久雄君葬儀(R4.10.21/葛飾東立石セレモニーホール橋本)

 

 

 

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林田先輩の著書(自分史)に見る国士舘大学国防部の淵源について

 先日、福岡県在住の林田俊一先輩より、ご著書(「感動感謝 ~我以外皆我師~」)をご恵贈いただいた。
 林田先輩は、国士舘大学法学部の4期先輩であり、小生が入学した昭和48年の3月に入れ替わりで卒業された。その後、本学経済学研究科(修士)及び亜細亜大学経営学研究科(修士)を修了され、税理士資格を取得、現在はご出身の福岡県飯塚市において「アストル税理士法人」他を手広く経営されている。

 以前、国士舘OB列伝(リンク参照)で触れた田中崇先輩と同級で、クラブも同じ国防部である。因みに奥様は本学短大OG、小生の1期先輩である。

 これから書こうとすることは、小生及び周辺の一部国士舘関係者には関心があっても、大多数の方にとってはどうでも良い話しであり、そのことをまずお断りしておく。

 ご恵贈いただいたご著書はいわゆる自分史であり、読み進めていくと昭和44年「1年の思い出」の項に、学生時代のクラブに関する記述がある。

 少し長くなるが以下に引用させていただく。

 

 「法学部1~2年は鶴川校舎、望岳寮に入寮、クラブは日本伝拳法部に入部。」

   略

 「ある時、昇級試験があり、実技は日頃の練習でパスをしていたが、学科試験も併せて実施された。事前に教育勅語と申し渡されていたので、自ら勉強していた。実際試験となると2~30人の中で、全部漢字とひらがなを間違わずに書いていたのは、1年生で私だけということが解り皆びっくり、実技もそこそこ強かったので、1年のうちから私がキャプテン候補といわれるようになって大変困った。」

 「私にとってはこれよりも、法学部の仲間と2年生になったら『国防研究部』を創ろう(下線: 筆者挿入)と話し合っていたので大変惜しい気持ちがしたが、いずれ退部しようと密かに行動していた。」

 「退部する部員の傾向を見ていると、退部する人はクラブへの参加が段々疎かになっていくのであった。そこで私は反対の行動をしようとした。真面目にクラブに出て行き、ある時一番影響力のある将来の委員長候補者、3年生佐藤先輩に『父の仕事の事でアルバイトをしなければならなくなった』と伝え、退部の申し入れをした。佐藤先輩はいたく同情されて、自らの責任で退部を承認しようと言ってくれた。」

 続いて昭和45年(2年生)の項に、

 「日本伝拳法道部を辞め国防研究部入部(同上)。」と記されている。

 更に館長訓話(柴田徳次郎舘長)、吉田松陰先生等に関する記述が続くがこれは割愛させていただく。

 林田先輩が、日本伝拳法道部に入部されていたことは著書で初めて知った。また、「~法学部の仲間と2年生になったら国防研究部を創ろうと話し合っていた~」のくだりも初めて聞いた話しであるが、「法学部の仲間」とは恐らく田中崇先輩のことであろう。

 「国防部」は早大が草分けかと思われるが、昭和40年代の世相(いわゆる70年安保闘争)を反映して関東、関西の主要大学において保守系の学生達を糾合して林立した。国士舘大学においても同じ時代の情勢を背景に創部されたものと思う。その淵源に関わる記事を林田先輩の著書に発見したことは、一時期、一世を風靡した国士舘大学国防部のルーツを探り当てたような気がしたのである。

 小生の国士舘大学入学時の記憶だが、当時、同クラブは大学行事として実施されていた記念式典(4/29天皇誕生日、2/3建国記念日)において国旗の掲揚を担当していた。式典は中高生を含む全学生がグラウンド(現中高グラウンド)に集合し、教育の一環として実施されていた。式典冒頭の国歌斉唱時、グラウンドの正面に道路を挟んで建つ5号館(当時体育校舎と呼ばれていた)の屋上に、制服制帽の国防部部員が横隊に等間隔で整列し、国旗に正対し挙手の敬礼を行うのである。グラウンドの列の中でそれを見ていた小生等は、単純に、格好いいなぁ!とあこがれの目で見ていたことを思い出す。

 林田先輩のご著書を読みながらそのようなことを懐かしく思い出した。

 今日、国防部はその後の世の流れの中で部員数の減少等により自然に消滅(解散)したが、卒業生は定期的に集まっておられるようである。最近では平成27年4月25日にOB会15名が世田谷校舎を訪問された際、小生が10号館前で記念写真の撮影をさせていただいた。写真の中央には小生のクラブの先輩になる三浦信行先生(元学長、言道部二期)がおさまっておられた。当該写真をここに掲載したいところだが、諸先輩方の了解を得ていないので見合わせることにする。

 クラブというものは俄に勃興し、また諸事情により解散に至ることもあるが、そこに集い何らかの目的を持って青春を過ごした者にとっては自己を育んでくれた古巣のようなものであり、懐かしい思い出が詰まっているはずである。であるからOB達は旧交を温めるために年を幾つ重ねても集まり続けるのである。

 寂しい話しであるが、時代の要請で国防部というクラブが誕生し、そしてやはり時代の流れとともに消えていった歴史を記録しておくこととする。


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一期一会!

 令和4年9月29日(木)昼
 於.銀座アスター「プティシーヌ町田」

 小生退職後、仲間うちの小さな会合には年に複数回参加しているが、写真のようなまとまった人数による会合への出席は初めてのことかもしれない。

 しかも幹事は池田先生と小生
 主賓は大西貫也先生。

 元国士舘高校教諭(国語科)であり、小生の出身クラブである言道部の7期先輩であり、やはり小生が関わった国士舘皇居勤労奉仕の元団長である。しかも小生の高校の恩師、三宅先生(やはり国語科)とは知己の間柄である。その大西先生がこの10月に、現在お住まいの横浜を離れ、ルーツでもある岡山に隠棲されることとなったのだ。

 大西先生のことについてもう少しふれておく。
 親父殿(大西一也氏)は元警視庁警部(特高)。
 終戦の年の8月22日、十四烈士女が壮絶な自決を遂げた愛宕山事件の現場で捜査(説得工作等)を担当された歴史の証人(詳細な手記を残しておられる)なのである。後年、町田市議会議員となられ、言道部はクラブを挙げて選挙応援させていただいた。以前、本ブログに書いた高瀬道場の高瀬政嗣君(言道部2学年後輩)なども選挙カーに乗り、「言道綱領」を下地にして声を張り上げて街宣活動していたことを思い出す。

 大西先生のご兄弟は3人。
 上から信也氏、ご本人、徹也氏。
 3人とも国士舘卒業であり親父殿の教育方針がうかがえる。信也氏は警視庁から現在都議会議員、保守論客である。徹也氏は法学部で小生と同級でありやはり理論派であった。

 大西先生とはこのように因縁浅からぬ関係なのだが、長く暮らした東京、神奈川を離れられるという。これまで諸活動の拠点を中央に置かれてきたが、在野で世に棲む日々を送られるのか…。ご事情はあまり詳しく伺っていないが、聞かずとも何となく察せられるところはある。

 ただ、本来逆かもしれないが、中央に残る者としては寂しい限りであり、この機会にご関係者にお集まりいただき「大西先生を送る会」を開催することとなった。20名前後になる予定だったが、それぞれにご事情があり、欠席された方々からもご丁寧なお言葉をいただき宴の中でご披露させていただいた。ご参加者全員からはつきない思い出話、激励の言葉などをいただき楽しい時間を過ごした。

 恐らくこのメンバーで一堂に会することは今後無いものと思われる。この会は生涯に一度限りの集まりとなるであろう。その意味において、万感の思いを込めて諸先生方のご健康を願い、そして大西先生のこれから始まる新しい生活への取り組みを応援し、ご多幸を祈りたい。

 

R5詠進歌_今年は比較的順調な進捗で清書完了!



 令和5歌会始のお題は「」(とも)である。

 和歌の修辞法(表現技法)には色々あるようだが、小生の場合、ほとんど素人のようなもので、文法を理解して作歌しているというレベルではない。

 ただ、歌を作る手順については、一応、自分なりの工夫がある。

 まずはマクロから入りミクロに至る。

 つまり、大きく構えて構想を練ることから始めるのだが、これは何方でもそうだろうとは思う。

 具体的な手順としては、お題から何が思い起こされるかをじっくりと考え、或いは、時に直感的な閃きも大切にして、脳裏に浮かんで来るフレーズ(句)を書き出してみて、取り敢えずに並べてみるのである。

 小生の場合であるが、それをしばらくの間、放置しておいて(温めておいて)、1週間とか十日とか、かなり長い時間をかけて推敲する。日常生活を送りながらも頭の片隅で考え続け、ふと思いついたことや閃きがあると修正していくのである。

 シンプルに言えば、単に時間をかけて考え続けるということなのだが、立案し、推敲し、師匠の添削を受け更に推敲し、完成に至るという流れに、程良い時間をかけるのだ。

 今年は二首を詠んだが、いずれもこのブログに書いた二人の同級生のことを題材にした歌である。一首は、高校の同級生の活躍をネット上に発見したときの驚きと懐かしさ、もう一首は、今なお政治第一線でバリバリ働いている大学の同級生の頼もしさである。

 宮内庁から指定された詠進要領により、以前に発表されていないことが要件であるので此処に公にすることはできないが、いずれ差し支えない時期が来たらブログにでも掲載しようと思う。

 さて、清書である。
 清書は墨書と決まっている。

 「書は人なり」というが、その人の書いたはその人の性格を表していると言われる。昨今、筆を執ることなどは詠進歌清書とお寺にお布施を届けるときの表書きぐらいしかないが、いつも丁寧自分らしい字を書くことに留意している。
 自分らしいなどと抽象的な表現を使ったが、うまく説明はできないが、この年になると自分らしい字というものがおぼろげにわかってくるのだ。

 をすり、半紙に向かいを入れる。

 上手く書けなくとも途中で止めないで、最後まで書くべき事項を全て書き完結させる。いつもこれを三回ほど繰り返す。半紙三枚の清書が出来上がるわけだが、その中から提出用の一枚を選び出す。

 以上の手順を経て、今年は順調に清書まで漕ぎ着けることができた。

 神棚と仏壇に報告し作業を終えた。

 

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