隠居歳時記

もう隠居? 否、自分流の隠居道を探求中!

EOSの日_横浜「桜」散歩2!


 ちょっと横浜市営地下鉄ブルーライン」で足を伸ばしてみた。

 弘明寺から桜木町に至る4㎞を超える大岡川プロムナードは横浜でも有数(最大級)の桜の名所である。昨年は川沿いに屋台は無かったが、今年は「まん防」も明け、一部区間ではあるが所狭しと種々の屋台が立ち並んでおり、店によってはアルコールが提供されていた。

 余談だが、4月1日の産経抄白幡洋三郎氏(『花見と桜』等)による「花見が成立するのに欠かせない三要素」というものが紹介されており、桜が群れ咲く「群桜」、酒と肴の「飲食」、大勢が群れ集まる「群集」とのことだ。また「花見は世界中で日本にしかない行事である」とある。納得できるような気がする。

 昨年の関連ブログに「桜の樹の下で宴会ばかりが花見ではない」などと書いた記憶があるが、やはり花見に「酒」は付きもの。今年の「桜」は庶民に細やかな楽しみをもたらして(返して)くれたようだ。

 本日は桜雨。
 今、自宅の居間から窓越しに満開の桜を眺めているが、桜吹雪にはまだ間があるようだ。もう少しの間、令和4年の""散歩を楽しませてもらおうと思う。

 

大岡川沿いの夜桜ブルーライン蒔田」~「弘明寺/4.1撮影)f:id:inkyoclub:20220402112827j:plain

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大岡川沿いの桜並木京急黄金町」~「日ノ出町/4.2撮影)
 この区間に露天が立ち並んでいる。
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EOSの日_横浜「桜」散歩!


 コロナ禍でも季節は巡る。
 3月28日横浜では満開を迎えた。

 毎年のことだが、桜が咲き始めるとジッとしていられない。
 3月21日の開花から、今日は何分咲きかなどと満開に至る過程を楽しみ、そして咲き誇った桜を楽しみ、クライマックスの桜吹雪を楽しむ。季節を感じ、日本人に生まれて良かったと思う時だ。

 一首詠みたいところだが、歌心が乏しいので写真におさめてみる。

 遠出もしたいが、今年は小生宅から歩き(Walk)若しくは自転車(Bicycle)で行ける範囲の風景を切り取ってupしてみたいと思う。

 本日現在までに撮影した写真を掲載するが、数日もすれば桜吹雪を迎える。もし"桜"散歩に出かけたら都度更新したいと思う。

 では、横浜から令和4年をお届けしよう。

 

自宅居間から窓越しにお花見!(3.27撮影)
 借景である。我が家ではこのシーズン、毎日がお花見である。

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山下公園みなとみらい線「元町中華街駅」/3.30撮影)
 お花見スポットの印象は薄いが知る人ぞ知る山下公園のしだれ桜。僅か3本であるが孤高の存在である。「氷川丸」、「マリンタワー」、老舗の「ホテルニューグランド」を背景に!

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鶴見川遊歩道横浜線鴨居駅」付近/3.29撮影)
 現役時は仕事も遊びも東京であり、ここは昨年、自転車を乗り回すうちに発見したスポットである。鴨居駅裏の鴨池橋から下流に、100本を超す桜が遊歩道沿いに咲き乱れている。また天気のよい日には富士山も姿を見せてくれる。

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岸根公園ブルーライン岸根公園駅」前/3.30撮影)
 我が家から歩いて行ける広域のお花見スポットである。小生が子供の頃は米軍キャンプであったが今は野球場、武道館を備える公園として整備されている。

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令和3年度の「よこはま学援隊」ボランティア活動を終えて!

神大寺小学校左手前の交差点
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 写真は私ども神大寺北町(かんだいじきたちょう)自治会が担当する「よこはま学援隊」の守備範囲、活動場所である。

 先週の金曜日(R4.3.18)は卒業式だった。
 卒業生は、小生等の小学校時代と異なり、男子は基本スーツにネクタイ、女子もフォーマルウェアという出で立ちで、中には男・女とも羽織袴の子もいる。

 毎回、挨拶と共に「いつもお疲れ様です」であったり「いつもありがとうございます」と、必ず、もう一言声を掛けてくれる女の子がいて、「おめでとう。六中行くの?」と聞くと「そうです」と元気な声が返ってきた。小学校も中学校も小生の後輩である。
 「がんばってね!」と激励の声をかけた。

 皆、顔つきに成長の跡が見える。
 見知った顔が希望に胸をふくらませて巣立っていった。

 そして、本日(R4.3.25)は在校生の修了式である。

 やはり印象に残っている1年生の女の子がいて、彼女は去年の4月、毎日泣きながら登校していた。最初の頃は泣きながらお母さんに手を引かれて、そのうち一人で登校できるようになったがやはり泣いていた。

 泣くと言っても「シクシク」ではない。号泣なのである。
 その子が登校してくると直ぐにわかる。
 遠くの方から大泣きしながら一人で歩いてくるのである。きっとお母さんは心を鬼にして娘を送り出しているのだろう。

 周囲の通行中の大人達は、いつも放っておけないという様子で彼女を見守っている。

 小生は交差点にいるので、その子が赤信号で立ち止まったりすると、側へ寄って「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」と声をかける(それしか出来ないのだが…)。
 一時(いっとき)泣き止むが、信号が変わると再び泣きながら正門へ向かって歩いて行く。そんなことが5月に入る頃まで続いたであろうか。

 そんな彼女も無事に1年生を終え、4月には2年生に進級するであろう。

 先日、校長先生から、毎月お送りいただく「神大寺小学校だより」と併せて、児童の直筆によるお礼のメッセージをいただいた。また今日は、年度内最後の学援隊ということで、直接交差点までごお越しになりご挨拶をいただいた。

 子供達の気持ちと先生方のお心遣いがうれしくて、この活動をしていて良かったなと思う瞬間である。

 4月新学期、再び路上で子供達の顔を見るのが楽しみである。

 

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祝・高野敏春教授ご定年!_先輩と出会った昭和48年の国士舘を振り返る!


 昭和48(1973)のことを書こうとしている。
 小生にとって昭和48年がどのような年であったか…。

 第一に、国士舘創立者柴田徳次郎先生が逝去(1月26日)された年である。
 小生、昭和48年入学組であるが、入試日が1月下旬(27日か28日?)であり、受験当日、世田谷校舎の正門(青雲寮)をくぐると左手舘宅(舘長宅: 現在の建学の森と1号館の位置)の塀に、鯨幕(くじらまく)が張られていたのを覚えている。

 第二に、前述のとおり、小生が国士舘大学(法学部8期)へ入学した年、そして覚悟をもって望岳寮入寮した年である。
 入学して直ぐの6月頃だったか、本学の一部学生・生徒と朝鮮高校生朝鮮総連系)による乱闘事件が都内各所で連続して発生し、都度マスコミに報道されたことにより、国会でも取り上げられる事態となり、その後の国士舘の改革へと繋がっていくのである。

 第三に、前項後段のことが発端となり、国士舘の改革を期して全学的な組織である「近代化委員会」が発足(6月29日: 第1回総会)した年である。
 委員長は、後に小生も授業(民事訴訟法)を受けることになる法学部教授中村宗雄先生(国士舘理事)であった。因みに中村宗雄先生は創立者柴田徳次郎先生と早大専門部で学んだ同期である。

 上記の通り、昭和48年は国士舘にとって波乱に満ち、小生にとっても決して記憶から消えることのない年となった。

 そして、前述した近代化委員会の下部組織、法学部学生代表委員会が主催した集会(ミニ集会)において、当該委員会の委員長であった、今日の法学部教授高野敏春先生(法学部6期/一時期言道部に在籍)と出会うことになるのである。

 高野先生との出会いは後期に入り、近代化委員会の答申により、制服着用自由化(S48年10月1日)された以降の「館長訓話」を受講した後のことだったと思う。

 当時、政経・法・文学部の教養課程(1・2年次)は鶴川校舎(現町田キャンパス)に置かれていた。週に1度(確か木曜日)開講される「館長訓話」の時限だけ、1年生全員が世田谷校舎に出校し、剣道場(10号館5階)で総長柴田梵天先生の講話を受けるのである。最初は正座で始まり、一定時間経過すると「安坐!」の指示で楽な姿勢が許される。

 誰からどのように伝え聞いたかハッキリとは覚えていないが、館長訓話の終了後に、前述の法学部学生委員会の主催による集会が開催されるので希望者は参加して欲しいとの案内があった。法学部学生委員会は各学年から選出された学生達が中心となり活動していた。当時の集会というものは、(語弊があるかもしれないが)ちょっとリベラルっぽい学生による集まりというイメージで、参加者はほとんど無く、数人か、せいぜい十数人が集まる程度のミニ集会であった。

 何を思ったか小生、その集会に野次馬根性で顔を出してみたのである。場所も覚えている。確か10号館3階角の312教室。現在は法学部教員の研究室になっているところだ。

 教室に入ろうとすると廊下の外れに学生服を着た上級生らしき数名が屯しており、入室する学生達の様子を窺っている。集まってくる者達は私服であり、制服を着用しているのは(確か)小生のみ。案の定というか直感したとおり、小生は呼び止められ、言葉は覚えていないが短く注意(有り体に言うと「脅し」)を受けた。「(このような集会に参加したら)どうなるかわかっているだろうな!」というような趣旨だったと思う。

 もう昔のことだが、この場面をよく覚えている。
 当時の雰囲気は、ちょっと生意気な下級生などは裏に連れて行かれて九六くんろく)を入れられることなどよくあることだった。が、小生も既に「寮生」の矜持は持っていた。しかも○○(不穏当な言葉なので割愛)の5階A棟。寮生であることの意味は今日の感覚ではわからないだろうが、日々緊張感の中で生きている者にとって、脅されようが1発や2発喰らおうが想定内のことである。腕に覚えもあった。
 (何でもこの言葉で済ましてしまうが)そのような「時代」だったのである。

 上級生達を受け流して教室に入った。
 集会はやはり十名に満たないものであった。
 そこでは高野委員長から、学生委員会における活動状況などの説明があったのだと思う。

 当時の学生委員会関連の諸資料をクラウド上に整理しているが(いずれ大学資料室に寄贈予定)、随所に高野委員長の名前が出てくる。

 その中の「法学部学生委員会報告書」(S48年12月7日)を見ると、学生の意見が通った事項として、「学制服の自由化」「学生による警備廃止」「東門開放」「法文校舎の脱靴自由」「冬休みの開始時期」が記録されており、その他教育研究施設全般についても議論されているようであり、かなり広範囲の問題について検討されていたようだ。

 また、S48年11月14日付けの「法学部学生委員会報告書」の前文には、次のような記載があった。少し長いが引用する。

「明日、11月15日に全学年集会を開催する予定でおりましたところ、各学年の講義の便宜を図っていただくために、また、中村宗雄先生から法学部学生委員会にお話ししたいことがあるということで、11月13日に中村宗雄先生と会談したところ、もし集会を行うことにより何らかの成果はあるにしても、それ以前の問題として、法学部学生委員会は今まで合法的に、かつまた組織的に活動してきた委員会だけに集会を認めたくも、他の学部、その他との関連性を考えると、今の段階ではそれらに対して何らかの形で悪影響を及ぼす可能性がなきにしもあらずということで現時点では、しばらく踏み止まっていただきたいということ、そしてまた、規則上全学年集会認めていないことでもある。というこれらの理由で本学生委員会でもこの点を考慮した末、いちおう今回は全学年集会を見送り、それにかわってここに下記の日時、役員をもつて各学年会議(呼称)を開催することにいたしました。」

 法学部全学年集会(文面からすると違法であったようだ)を開くか否かという局面の緊張感が伝わってくる。

 この時、法学部学生委員会リーダーとして牽引していたのが紛れもない高野敏春先生なのだ。激動の昭和48年にあって国士舘大学法学部の改革の旗手だったのである。

 うるさ型のネガティブなことばっかり言っているオヤジだと思っている人は多いかもしれないが(小生もちょっと思っている…。失礼!)、原点(草創期)を知るものにとっては、全身全霊で国士舘法学部の建設に学生の頃から汗を流してきた先輩なのだ。

 持ち上げすぎも良くないので、ちょっとだけ別の顔を紹介する。

 数年前の小生現役時(法学部事務長時)、高野先生が心臓発作で、大学の医務室から国立病院機構東京医療センター(駒沢)の救急へ担ぎ込まれた時、病院に駆けつけた奥様と二人の娘さんにお目にかかったが、先生は三人に頭が上がらない。どうやら家庭では三対一のようである。
 聞くところによると、なんでも娘さん夫婦が住む横浜の、しかも小生宅から遠くないところへ引っ越しを考えているらしい。大変なことになりそうな予感がしている。


 実は本稿を掲載することの了解を高野先生からとっていない。

 小生が本稿を書いていることもご本人は知らない。

 後でお叱りがあるかもしれないし、削除或いは訂正を求められるかもしれないが、高野先生が定年退職されるこの節目に、あえて当時思い出と、小生の高野論(観)を記しておこうと思料しキーボードをたたいている。

 万一、クレームが入ったときは、削除・訂正することがあるかもしれないとお断りし、本稿をupすることにする。


高野先生(右から2人目)を囲んで!
 退職の年が勤続30周年の節目となった。R3年11月4日、近しい仲間達が集まり、新宿栄寿司でお祝いの会を催した。減量して頬もお腹もすっきりとされ、奥方と娘達は喜んでいるらしい!

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R4.6.27追記
 アルバムからこのような写真が出てきたので掲載させていただく。昭和50年(日付不詳/小生3年生)だと思う。法学部主催により法学部全学生を対象に剣道場で行われた中村宗雄先生追悼会の場面である。卒業生代表として中野浩一郎先輩(法学部1期/柴田家)、在校生代表として小生(法学部8期/言道部)が演壇に立ち中村先生の思い出を語った。この写真は法学会誌に掲載されたもので、よくわからないとおもうが生意気にも小生この当時ひげを生やしていた。

 

 

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EOSの日_我が家の梅も満開の一歩手前!

 素人の域を出ないが、

 最近、背景をボカすことの意味がわかってきたような気がする。

 一点を際立たせるためだ。

 我が家の梅も満開の一歩手前である。

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男厨_俺流「ポトフ」を作る!

 久々の料理ブログのメニューは「ポトフ」だ。

 ガッツリと野菜を食べられるので結構好みの料理である。

 YouTubeを見ながら、今までいくつかの調理方法を試してみたが、それらを折衷して、これが良いのではないかという自分流の作り方を開拓した(ちょっと大袈裟)。

 今回は俺流「ポトフ」を作ってみよう。

 レシピは次のとおりだ。

1.準備
食材

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 ジャガイモ(今回はメークイン)5個、ニンジン2本、タマネギ1個、キャベツ1/2個、ニンニク3片。野菜にはベーコンを合わせると良いのだが、今回はウインナー10本を使ってみた。

 ジャガイモはタワシで洗い(皮はむかない)、それぞれ芽を取り半分に切る。

 ニンジンは皮をむき(むかなくても良いが)二等分し、更にそれぞれを半分に切る。

 タマネギは皮をむき、頭を落とし根本はばらけないように薄く切る。それを12等分にくし切りにする。

 キャベツ(1/2個)もばらけないように芯を残し、4等分にくし切りにする。

 ニンニクはまな板の上でつぶしておく。

 ウインナーは破裂しないように切れ目を入れておく。


2.調理①
食材に焼き目を付ける!

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 フライパンにオリーブオイルをひき、食材を順番に焼いていく。食材に焼き目がついたら鍋に入れ、次の食材を焼く。

 途中で、適宜オリーブオイルを足す。

 どうやら、この焼き目メイラード反応)に旨さの秘密があるようだ。

 なお食材が多いので、鍋は大きめのものが良い。


3.調理②
煮込む!
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 調理①で焼いた食材がすべて鍋におさまったら、ヒタヒタになるくらい水(今回は1900㏄)を注ぎ煮込んでいく。

 味付けはコンソメのキュービックを6個と少々(塩分控えめにしているので5㌘)を入れた。塩はRock Salt(岩塩)、まろやかな塩味が良い。

 約30分程煮込み、味を見て薄ければ塩を加える。

完成
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 ワインがあれば良かったのだが、買い置きが無かったので、「浦霞」(宮城県/株式会社佐浦)を合わせてみた。

 酒も料理も旨し!

 マスタードを忘れずに!

 

桃の節句に寄せて_今年は柿島屋のお雛様に会うこと出来ず!

町田「柿島屋」のお雛様(R2/2.11)f:id:inkyoclub:20220302105056j:plain

 町田「柿島屋」(かきじまや)。
 年に1回は顔を出す店である。

 写真のお雛様桃の節句にあわせて店内に飾られているもので、入口付近でお客様を迎えてくれる。なんでも、おかみさんが子供の頃からのものだそうだ(ハッキリと確認しなかったが、おかみさんの雛人形だと思う!?)。

 残念ながら今年は「まん防」(蔓延防止措置)のため同店は1月末から休業となり、梅割り(おすすめのお酒)も飲めず、お雛様に会うこともできないまま3月3日を迎えてしまった。写真は令和2年2月に訪ねたときのものだが、桃の節句に因んで掲載させて頂く。


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